みんなの声

都南教会の会員・信徒の群れの「声」をお届けします。
私たちの誰もが、親しき仲間の信仰の声を必要としているからです。

 

羊の群れへ

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
                    (ヨハネによる福音書10章10節)

 

 この句は私の母校の「学院聖句」である。私は昭和20年代、敗戦後の諸事混乱していた時期に九州女学院中学校に入学した。日本福音ルーテル教会が1926年(大正15年)に熊本に創設した学校で、現在、ルーテル学院中学校・高等学校と改名、男女共学となっている。高校を卒業するまで校庭の一隅にあった寮で過ごした。朝の礼拝に始まり終礼拝、寮での夕礼拝、加えて聖日礼拝といったキリスト教による教育環境にたっぷり浸っての6年間だった。
 高校卒業数か月前の頃、私は、卒業するまでには洗礼を受けたいと漠然と思っていた。次第にその気持ちになって行ったのは環境の所産といえるかもしれない。
当時のことを振り返れば、高3年の後半ごろ、私はある上級生と同室になった。彼女の物腰や言葉、お祈りの端々には聖い霊的な雰囲気があって、例えるならば、「キリストによって神に献げられる良い香り」(コリント二の2章15節)を身にまとっているような人だった。一緒に過ごす中で、私は彼女から、生きる目標は何かを学び、多くの感化を受けた。彼女としても、私を決心させるまでは、という決意を持たれたようだった。トルストイの短編「光あるうち光の中を歩め」を読んで議論した。また、ホルマン・ハントの「世の光」の絵のある本を示されて、「明かりを灯して戸の外に立っておられる主イエス」に対して中から戸を開けられずにいた私を諭し、行く道を教えられた。私はようやくキリストの羊になる決意を彼女に伝えた。神様は、固い信仰に立つこの先輩を用いて、私をキリストの羊の群へお導きくださった。
 私の信仰は今もなお、山あり谷ありの途上にある。このままでは主の救いに与ることができるのだろうかと思う時もあるが、パウロがフィリピの信徒への手紙3章12節で「わたしは、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と語っている言葉に励まされる。都南教会に転籍を許されて48年になる。永遠の命に与ることができますように、と祈りつつ、懺悔と感謝の中で八十路を辿っている。 (H.S)

 

オルガン奏楽の奉仕者として

 私は、都南ルーテル幼稚会で初めてキリスト教と出会いました。その後、教会学校に通うようになり、ミッションスクールに進学し、洗礼を受けました。私の人生の土台がここ都南教会にあると思います。その都南教会でオルガン奏楽をさせていただいてどれくらいか、今回会報の原稿を書くにあたって数えてみました。中学でパイルオルガンを習うようになったのがきっかけで、CSの奏楽を、高校生になって大人の礼拝の奏楽を、気が付いたらもう20年以上も奏楽に携わっているなんて驚きました。
 趣味はと聞かれれば、音楽を聴くこと・弾くこと、特にクラシック音楽と答えるほど、小さい時から音楽は好きです。音楽は私に力を与えてくれたり、癒してくれます。専門の知識があるわけではありませんが、作曲者のことや曲のこと、讃美歌の歌詞の意味を調べてみたりすることは楽しくて好きです。
 大学時代は礼拝奉仕の団体に属し、本来の理学部の勉強をしながら、教会音楽を学び、先生から奏楽のレッスンを受けました。大学礼拝堂のオルガニストとして礼拝に参加していたので、都南教会に通えないこともありましたが、卒業後に就職して、結婚して、子供が産まれて子育てをしながらも、自分が好きなことを生かせる場所があることがうれしいです。
 オルガン当番の時は、私にとって1人でゆっくり御言葉を聴ける時間で心が落ち着く時です。何事もじっくりしっかり考えて動く毎日が、子供が産まれてそうもいかなくなり、手探りしながら追われるように過ごす日々。また子供を怒ってしまった、家族に八つ当たりしてしまったと落ち込み、そんな自分にイライラしてしまい何も見えなくなっていく。そのような気持ちの時でも、礼拝のひと時で心が洗われて、また頑張ろうという気にしてくれます。
 奏楽の日が決まるとまず聖句を調べて、曲を選んで、讃美歌の言葉を読み、音色を考えます。家族の協力もあって練習する時間ができていて、教会員の方々のお支えがあって奏楽させていただいています。礼拝が心を落ち着けて御言葉が聴ける時であるように、皆で心を合わせて讃美できる場であるようにと心がけて、また次回の礼拝のために練習をしていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。 (M.T)

 

都南ルーテル聖歌隊のあゆみ50年

 私が中学生の頃、社会科勉強の為、福岡大牟田ルーテル教会の門を潜りました。戦後間もないまだ社会情勢が混乱の中にあった時、父を亡くし、自分がどの様な道を歩めばよいのか、真暗闇の中にありました。
 小さいときから歌の大好きだった私は、辺り構わず大声で歌ったものでした。せっせと教会に通う様になったのも、賛美歌を大声で歌う事が出来たからかも知れません。東京に嫁いだ姉が手引きしてくれた事もあり、上京して自分の出来ることを探したいと思う様になり、母を説得し、福岡の県立高校から東京のミッションスクールに転校させていただきました。
  その時、たまたま募集していたプロの聖歌隊東京チャペルセンターコワイヤ(外国人のための教会)に入団を許され、中田羽後先生より、宗教音楽を学ぶ機会が与えられました。と同時に音楽大学受験の道も開け、前途洋々のように思えました。神様は私に2本のレールを敷いて下さいました。父親のいない私が音楽の道へと進む事が出来たのです。神様のお導き、まさにこれは奇跡と言うべきです。私は2本のレールをあるきだしました。しかしそれは厳しい道でした。アルバイト、アルバイトの連続、ルーテルアワーのお仕事もその頃与えられました。
 あまりの忙しさから大病を患い、一時音楽を離れなくてはならないかと思いつめたこともありました。しかし神様は再度レールの上に載せて下さいました。
 大学を卒業して数年後、結婚して2人の子供に恵まれました。その頃ルーテル教会が近くにある事を知り、早速転籍させて頂いたのです。
  丁度その時チャペルセンターが解散となり、今まで歌っていた100を超える英語の宗教曲を歌う場所がなくなり、これらすばらしい音楽を発表する場が失われました。時を同じくして、その当時牧会をなさっていらした田坂惇巳先生から聖歌隊を作って欲しいと依頼され、二つ返事でお引き受けした次第です。
 2人目の娘が誕生した年です。私たちは魚が水を得た様に、今迄チャペルセンターで歌っていた数々の曲を日本語で歌いたいとメンバーをつのり、練習に励んだのです。その英語から日本語への翻訳を長年一緒に歌っていた夫がかって出てくれました。 (M.H)

 

私と教会

 初めて教会に行ったのは敗戦で国土が荒廃した中で復興の始まりの頃、昭和21年末から22年初めの冬だった。教会と家とが近いことは神様に出会う動機の一つだった。
 18歳の頃の私は心身共に飢えた状態にあったがそれは当時の日本国民に共通のことだった。それまでの価値観が殆ど失われ、胃袋も空腹感を覚えていた。今では想像しにくいが「むつまじうして一かたまりの乾けるパンあるは、争いありてほふれるけものの満ちたる家にまさる」(文語訳聖書箴言17:1)の聖句が心にびびいた。更に使徒パウロが「身に一つのとげが与えられました。それはサタンから送られた使いです。わたしは三度主に願いました。すると主はわたしの恵みはあなたに十分である。」(途中省略)とコリント信徒への手紙二12:7〜10に記された聖句は心の奥底にしみわたる感があった。
 そして昭和23年の復活祭の日に平井清先生により洗礼を受けた。その後は青年会や当時の日曜学校の仕事や全ルーテル教会青年会(リーサーリーグ)などの活動や、都南教会が宗教法人の許可を受けるための役員として名前を使わせて頂く等いろんなことがあった。昭和47年10月刊行の日本福音ルーテル都南教会30周年記念誌にはなつかしい方や大先輩の方や現在教会の奉仕活動をされている方の貴重な文章が記されているが、そのお名前と文章の内容はここでは省略させていただく。
 私はある時期に不遜にも教会から遠のき神様から逃げようとしたが、そんなときにも頭のなかにあったのは平井先生が説教のなかで引用されたロシアの文豪ドストエフスキの『カラマーゾフの兄弟』のなかでロシア正教会の長老が悩める青年に話す「神様の愛でさえ追いつかぬような罪があるだろうか」という言葉だった。町野洋先生は週報を送り続けて下さり、私は再び教会の扉を叩いた。礼拝に出る資格がない不信仰な者を招いて下さる十字架の主イエスをひれ伏して拝むほかはない。 (W.S)

 

私の原点

 

 「ママがいいのー!」と叫ぶ晶子。「ママがいいわねー。はい。」と言いながらも晶子を担ぐM.S先生。30年前の都南ルーテル幼稚会の朝の光景である。それから30年後、晶子は2児の母となり、子どもたちを連れて教会に通っているなんて誰が想像していたであろうか。
 思えば30年前に都南ルーテル幼稚会に通ったことが私の原点だ。教会学校に繋がりミッションスクールに通ったことで洗礼を受けた。幼い頃からキリスト教に触れ合い、教会には話を聞いてくれるおじちゃんおばちゃんがいるという環境の中にいて、自然と人生の基盤というか方向性が見えていた。この基盤は、看護師という人の生死と向き合う仕事をする中でとても重要となっている。
 今は大人の礼拝に出席出来ず、子どもの礼拝に出席をしている。しかし、イタズラする子どもの監視をするため落ち着いて説教が聞けない、、毎日怒ってばかりで心がすさむな、、と思っていたところ、ママ達のための分級クラスができた。聖書の話を聞き、ママ達と情報の交換をする事で気持ちがスッキリとし、新しい1週間が迎えられる嬉しさを味わった。
 これからいろんなことがあると思うが、教会には繋がっていたいと思う。そして子ども達にはこのまま教会に繋がってほしいと祈るばかりである。
 最後に、今まで通りまなちゃんとあやとくんの相手をお願いします!あきは教会に来たら休みます!!いつもありがとうね!! (O.A)

 

聖書朗読者の声

  「聖書朗読感想文」
 礼拝で聖書を朗読するよう、牧師先生からお話があったとき、私にそのようなことができるかと身の縮む思いがいたしました。
 事前に講師の先生をお迎えして講習会が開かれました。そこで学んだことで特に心に残ったことは、朗読箇所だけでなく、その前後の内容もよく理解して読むということでした。そうすることで、内容が明確に聞き手に伝わるとのことでした。
 当日、震えるような緊張の中で心に平安を与えてくれたのは、礼拝の前に行われる牧師室での祈りの時間でした。礼拝はすでにこの時から始まっているのでした。また、マイクの使い方や音量を調節してくださる方、朗読をCDにしてくださる方など、多くの方の支えのもとに礼拝が守られていることがよく分かりました。
 誠に恥ずかしいことですが、私は長年礼拝に出席しながら、今まで参会者の存在の大切さを考えていませんでした。この度、聖壇に上がって会堂の皆さまの姿を見たとき、その存在の大切さを痛感しました。真剣に聴いてくださる姿は、大きな支えであり励ましになりました。参会者はどなたも礼拝の重要な要素であると思いました。
 私の最後の朗読箇所は、エフェソの信徒への手紙(3章14節から21節)でした。パウロの切々とした祈りは、私への励ましのようにも思われました。この箇所の見出しー「キリストの愛を知る」は、聖書朗読を通して私に与えられた神さまからのメッセージであるように思いました。 (K.A)

 

 「聖書朗読を終えて」
 昨年3月立山先生から礼拝での聖書朗読を打診されたとき、都南教会の会員になって日も浅い自分が読むなんておこがましいと思って一瞬迷いましたが、何か役割を担わせることで、教会生活をより密度の濃いものにという心遣いなのだと思い直し、引き受けることにしました。
 三鷹教会のY.T姉の講習会があって、ただ読めばいいというわけではなく、読み方を間違えないこと、句読点をきちんと守ること、適切な抑揚とリズム・早さが必要なこと、何よりも聖句の意味をしっかり把握し聴く人の心に届くように読むことが大切等々のお話があり、うわっ!えらいことになったぞと思いました。
 1年間、毎月2回4人でローテーションを組んでやることとなり、第1回目の4月2日、壇に上がるまではかなり緊張しましたが、「本日の第一の朗読は…」と読み始めると意外にすらすらと進んであっという間に終わってしまいました。11月に体調を崩して入院するなど他のメンバーにご迷惑をかけてしまいましたが、何とか最後まで務めを果たすことができました。退院後、立っているのがやっとというときにも壇の前に立つとなぜか元気がでるのが不思議でした。朗読する箇所はせいぜい数行から数十行ですが、その前後を事前に読まないと意味がわかりません。自然に聖書を読む時間が長くなるわけで、これも牧師の狙いの一つだったのだと思い当りました。 閑話休題。昨年10月に読んだ聖句「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(ローマの信徒への手紙12章19節)が印象的でした。若い頃「復讐するは我にあり」という映画を観たときのことを思い出したからですが、この聖句は「復讐は神に任せる」と言う意味なのに、「自分が復讐するのだ」と真逆の解釈が一般化していることを原作者の佐木隆三はどう考えていたのだろうかと改めて思ったのです。 (N.T)

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