教会暦の説教
教会暦に従った説教です。今年は「B年」で、マルコによる福音書及びヨハネによる福音書が中心に選ばれます。毎週主日(日曜日)に更新しています。
12月:降誕節第1主日(12月29日)〜待降節第1主日(12月1日)
【降誕節第1主日(12月29日)】
「母マリアの賢さ」
(ルカ 2:41〜52)
ルカだけの物語
先週私たちはクリスマスの礼拝を祝いました。神の子イエス・キリストのご誕生を共に覚えましたが、一週間後の今日は、すでにイエス様が12歳になったときの話を読んだのです。いささか12年間を一気に飛び越える印象がありますが、ご存じのように、他の福音書では、クリスマスの物語そのものがなく、すぐに30歳のイエス様の話から始まるものもありますし、他の福音書もクリスマスの物語を描いたとしても、今日のような少年イエスを描くことはありません。その意味で、ルカによる福音書だけが、イエス様の誕生と30歳になってからの宣教の始まりの間に、このような話を丁寧に挿入していると言えるのです。
神殿で問答するイエス
それにしても私たちの感覚からすればずいぶんとのんきな話です。12歳とは言え、成人した大人ではありません。これまで何回か訪れたことのある町であるとは言え、ナザレからエルサレムまで120〜130キロほど離れているのですから、遠く離れた町を旅していたわけです。それなのに家族そろって行動するのではなく、また一緒に帰るでもなく、一日ほどの距離を歩んだところで、マリアとヨセフは長男のイエスがいないことに気づいたのです。さすがに慌てた両親は、エルサレムまで引き返すことになったというところから今日の話の本題が始まります。
両親がエルサレムで三日間も探し回り、ようやく見つけたのが神殿の境内でした。親の心配をまったく気にすることなく、神殿にいる律法の教師たちの真ん中に座って彼らと語り合っていたのです。
まずここで興味深いことが書いてありました。神殿にいる律法の専門家やファリサイ派の長老たちとおぼしき人たちに、イエス様が教えていたのではなかったことです。12歳の少年では、さすがに人々に教えることのできる年齢ではなかったのかもしれません。いずれにせよイエス様は「教師たちから話を聞いたり、質問したりしておられた」(46節)のです。つまり彼らの教えに耳を傾けて学ぶこと、それが先だったのです。でもその後に、教師たちが少年に質問をしたのでしょう。どれほどの知識があり、彼らが教えたことをどれくらい理解しているのかを試そうとしていくつかの質問のでしょう。ところが、むしろ自分たちが教えられることがいつくもあったのでしょう。だから「聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚嘆した」(47節)のです。
マリアとイエスの対話
ここまでが神殿の境内で展開されていたことですが、それを発見した両親、特に母マリアとイエス様の対話が今日の私たちの学ぶべきことです。
三日目にしてようやく見つけ出した母マリアの言葉は、このような状況に陥ったならばどんな親も投げつける言葉です。
「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(48節)
という言葉でした。しかりつけたのです。すると、イエス様の返された言葉が実に不可解であり、意味不明だったのです。
「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(49節)
という言葉でした。この言葉がマリアとヨセフには「意味が分からなかった」(50節)と書いてありました。私たちにとっても同様ではないでしょうか。でも、この言葉が今日の出来事のもっとも重要なことではないかと思えるのです。
抜け落ちているある言葉
私たちにも、どうしてイエス様がこんなことを言われたのか、正直明瞭には分かりません。ですからマリアとヨセフとあまり変わらないのですが、でもこの言葉に少し留まって思い巡らすならば、見えて来ることがあるように感じられます。特に「私が自分の父の家にいるはずだ」という言葉がとても重要なことを言っているように思えるのです。
そこで「私の父」と言われたことに目を止めて見ましょう。このイエス様の言葉の前に、母親のマリアが「お父さんも私も心配して捜していたのです」と少年イエスを咎めた言葉について語りましたが、実は私たちが今日読んだ日本語の聖書にはなぜか、元々の言葉にあるひとつの言葉が抜け落ちていることが分かりました。それは「あなたのお父さんも」という「あなたの」という言葉です。
もちろんわざわざ「あなたのお父さん」と言わなくても、ヨセフは少年イエスのお父さんであることははっきりしていますから、この言葉を入れなくても大して問題ではないと訳した専門家たちが判断したのでしょう。でも私には「あなたのお父さんも私も」とマリアが言ったことが、イエス様の返す言葉になったのではないかと思えるのです。
イエスの第一の父は「神様」
私たちは先週クリスマスを祝いましたが、クリスマスの物語には、例えばこのルカによる福音書にしても、マリアのお腹の中には聖霊による神の子が宿ったことを天使ガブリエルがマリアに告げたということが書かれていました(1:35)。ですからイエス様が「神の子」と呼ばれる意味を私たちは知っています。あるいは、イエス様が「父よ」と神様のことを呼ばれるわけですから、イエス様の父はまずヨセフではなく、父なる神様こそがイエス様の父になるはずです。ですからイエス様はあえて「私が自分の父の家にいる」ということを言われたのではないでしょうか。
ですからマリアが「あなたのお父さんも私も心配して捜していたのです」と咎めたからこそ、イエス様は不可解とも思える言葉を返されたのですが、でもそれは決して不可解でも、意味がよく分からないということではないのです。
私たちにも「私の父」がいる
ただ、だからと言って、「ヨセフは自分の父親ではない」とイエス様が思っておられたと受け取ってはいけません。それを証拠に、イエス様は父親のヨセフの仕事を受け継いで大工としては働かれました。マタイに福音書13章55節に「この人は大工の息子ではないか」と人々が言った言葉がありますし、また「この人は大工ではないか」(マルコ6:3)という言葉もマルコ福音書にありますので、少なくともヨセフを父親としてイエス様は育たれたのです。
このことはイエス様に関することだけではないと私は思います。私たちの誰にも両親がいます。少なくとも父親と呼べる人がおり、母親と呼ぶ人がいる。イエス様と同じです。礼拝にこのようにして与かっている私たちは、例えば主の祈りを通して「天の父よ」と呼び掛けて祈り始めます。それぞれの日々の祈りもそうです。今日イエス様が言われた「私が自分の父の家にいるはずだ」という言葉は、実は私たちも心に刻まなければならない言葉なのです。
今日はこの一年の最後の主日礼拝となりますが、この一年間私たちは「私は自分の父の家、この礼拝堂にいるはずである」、この言葉を語らずとも、でもこの言葉を大切にして来た一年だったのではないでしょうか。来る新しい一年もそうありたいのです。
マリアの賢さ
そして次にマリアに目を注ぎましょう。マリアにはイエス様が返された言葉の意味が分かりませんでした。ですから、マリアは少年イエスが語ったことを理解するという意味での賢さが足りなかったと言えるのです。でもその次に書かれてある言葉に目が留まります。確かにその時には意味不明の言葉でしなかったのですが、「母はこれらのことをみな心に留めていた」(51節)と書いてあることを、私たちは大切にしなければなりません。これがマリアの賢さというものを表現していると思えるからです。
いつの時代も「賢さ」とは何であるか問われるものです。例えば、賢さのひとつの表現として「知識」と「知恵」というものがあって、この二つにも違いあると言われることがあります。例えばこういう解説がありました。
「知識」とはあることについて知ることで、それに対し「知恵」は物事を判断し
て、処理して行くこと
というものがありました。端的に言うと、知識とは「情報」で、知恵は「その情報を生かすこと」ということだという説明がありました。確かにそういう違いがあって、賢さというものは「知恵」の方が近いのかなと感じるのです。
旧約聖書の箴言の1章(7節)に「主を畏れることは知恵の初め」という有名な言葉があります。これまでの聖書ではこのように「主を畏れることは知恵の初め」という言葉でしたが、今用いているこの聖書では「主を畏れることは知識の初め」という言葉に変わっています。同じ聖書でも「知恵」と言ってみたり「知識」と言ってみたり、やや混乱があるようにも思われるのですが、でも、マリアが「賢い女性であった」と言うのであれば、知識が豊かであったとか、知恵があったということとも違うように思えるのです。
たとえ分からずとも
たとえ今分からなかったとしても、自分に語られた言葉を、あるいは自分の身に起こった出来事を「心に留めた」のです。
このようなマリアを、このルカによる福音書はとても丁寧に描いています。先週読んだクリスマスの物語にも出てきました。羊飼いたちが、飼い葉桶に似ている乳飲み子を探し当てたという話でした。羊飼いたちはその光景を見て、その幼子について天使からお告げがあったことを人々に知らせたのですが、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」(2:18)と書いてあります。それに対してマリアは「これらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」(19節)のです。今日と同じ言葉です。人々も天使たちの話を「不思議に思った」のです。でも不思議に思ったことで終わったのです。その出来事が心の奥底まで下りなかったのです。
私たちはこのマリアの「賢さ」というものを大切にしなければなりません。そもそも聖書の言葉、その中で起こったできごとは「神様の出来事」だからです。世の中には「知識」と「知恵」に満ちた人がたくさんいるに違いない。またそれを自負し、神様の出来事を自分の理解で論じる人さえもいるほどです。
私たちはそれとは異なるのです。もちろん説教を通して、聖書を読む会などを通して、聖書のみ言葉の中に、神様の思いを尋ね求めるのです。新しい年もそうでありたいのです。ただみ言葉が、また自分の身に起こる不可解な出来事や受け入れられないことが起こり得るのです。それを皆さんはこの一年間もたびたび体験されたことでしょう。しかし私たちには理解できなこと、受け入れられないことを「心に留める」ことしかできないことがあることでしょう。しかしそれが重要なのです。なぜなら、それがいつしか必ず心の中に沁み込んでくる時があると信じるからです。
新しい一年もそうでありたいと願うのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【クリスマス・イブ(12月24日)】
「聖夜の小さな灯火」
(ルカ 2:8〜20)
(レンブラント作)
私たちが豊かになるために
聖書の中に「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(Uコリント8:9)という言葉があります。「主」とはイエス・キリストのことです。ですから、「イエス・キリストは豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」と言う意味です。さらに続けて「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と記されています。「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」というこの言葉は、クリスマス・イブここに集まった私たちも語られているのではないかと私は考えるのです。
主が貧しくなられたとは?
どうしてそう言えるのでしょうか。「主は豊かであったのに」という意味は分かります。イエス・キリストは神の子としてお生まれになったのですから、当然「豊かな」方だったのです。ではその豊かな方が「貧しくなられた」ということはどういうことでしょうか。
私たちはこの言葉の意味を、先ほど耳にした羊飼いと天使たちの出来事に見ることができるのです。ルカによる福音書の2章8節から書かれてあることがそうでした。そこに書いてあったことですが、皆さまご存じのように、イエス様はマリアとヨセフの間にお生まれになりました。マリアが旅の途中で急に産気づいたので、慌ててヨセフは宿を探したのですが、どこも空いませんでした。仕方なく家畜小屋を借りて、そこでマリアは出産し、幼子を飼い葉桶に寝かせるしかなかったのです。「飼い葉桶」とは家畜の餌を入れる器ですから、そこで牛や馬、羊が餌を口にするのです。
生誕劇と現実の出来事
これらの光景を私たちは絵画を通して想像することができます。あるいは保育園や幼稚園でクリスマスの出来事を演じてくれる劇を見ることがあります。生誕劇とかページェントと言いますが、実に微笑ましい光景です。誰もが心が温かくなるものです。
でも、2000年前に起こった実際の出来事は、微笑ましく眺めるものではなかったのです。今言いましたように、マリアとヨセフはできることなら宿に泊まり、そこで出産したかったからです。家畜小屋で出産を希望する親でどこにいるでしょうか。この時代でも変わらなかったはずです。
その上、生まれたばかりの赤ちゃんを家畜の餌箱の中に寝かせることも二人が希望したことではありませんでした。家畜小屋は囲いがあっても寒い隙間風が吹いたことでしょう。飼い葉桶は家畜の唾液で汚れ、不衛生であり、糞尿の匂いもしたことでしょう。実際に起こったであろうことを想像したとしても、温かいこの礼拝堂に座っている私たちには、実際に起こったことを想像し尽くしことはできないのです。ですから実際の「生誕劇」、ページェントは微笑ましい、心温まることではなかったことを私たちは覚えなければなりません。
にも拘わらず…
それでも、そうだったとしても、実際の生誕劇はとても微笑ましい出来事ではなかったとしても、しかし「心温まる」ことであったのです。変な言い方ですが、でもこのように表現せざるを得なかったことを、最初に言いました聖書の言葉が語っているのではないかと私は思うのです。
「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
と言う言葉です。園児たちの演じるページェントももちろん微笑ましく、心が温まるものです。でももっとも大切なことは、実際の生誕劇は、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」ことだったのです。だから「あなたがたが心を温められ、心が豊かになるためだった」と言っているのです。
羊飼いたちの生活の中に
その実際の生誕劇にも「心を温められた」人たちがいました。羊飼いたちです。彼らは放牧の羊飼いたちでしたから、野宿しながら羊の番を夜通ししていたのです。ですから家畜小屋に暖を取ることすらできませんでした。深々と冷え込み、羊飼い以外に誰もいない野原の彼らの存在に、誰が注目していたでしょうか。きっといなかったのです。でも神様の目が注がれたのです。神様の使いである天使が告げました。「救い主」が誕生したという大きな喜びを告げたのです。でもどこに行けばよいのか、羊飼いたちは迷ったことでしょう。
神の子であるのなら、どこかの宮殿であろうか、どこかのお屋敷であろうかと咄嗟に彼らは思い浮かべたことでしょう。ところが神の子救い主は「飼い葉桶に寝ている」と天使たちは告げたのです。そこで羊飼いたちは早速ベツレヘムへ出かけたのです。そして「マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を探し当てたのです。
もし神の子はどこかの宮殿やお屋敷と言えるようなところにお生まれになったのであれば、羊飼いたちはあえて出かけることはしなかったことでしょう。いや、どこかの宿屋であったとしても、そこに羊飼いたちが出かけることもなかったのかもしれません。羊飼いたちとっては、家畜小屋には羊たちがいるのですから自分たちの生活の一部の場所です。飼い葉桶も自分たちの生活の一部ではないでしょうか。そこに救い主がお生まれになったのですから、探し当てた羊飼いたちの心が温めら、豊かにされたことは当然のことだと思うのです。
神様の眼差しは、誰も知りようのないほどに、孤独に野宿している羊飼いたちにも向けられていたのです。私は彼らが「心を温められた」という言葉を使いましたが、それを「豊かにされた」という言葉でもあると思うのです。
「どちらか」ではなく「どちらも」
さてここまで、ルカによる福音書のクリスマスの物語について語りました。でももうひとつの福音書であるマタイによる福音書には羊飼いたちは出てきません。飼い葉桶のことも何も書いてありません。今夜読んでいただいたその続きを読んでゆきますと、羊飼いたちに替わって、星の研究をしていた東方の博士たちが出てきます。いつもと異なる星の輝きから、神のみ子の誕生に気づいたのは博士たちだけだったのです。星の研究に多くの時間を費やし、それを生業としていた人たちに神様の眼差しが注がれたのです。
羊飼いたちの話と東方の博士たちの話が随分と異なるようにも思えますので、どちらが本当のクリスマスの物語なのだろうかと、戸惑うのです、「どちらが実際のクリスマスの話なのだろうか」と。しかし、そのような問いは違うのだと私は思います。「どちらが」ではなくて「どちらも」実際のクリスマスの物語なのです。
と言うのは「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」ということではどちらも同じだからです。主イエス・キリストは神の子であり、本当は豊かであったのに、羊飼いたちのために、そして東方の博士たちのために、私たちを変わらない一人の人間として貧しい姿を取ってくださったことによって、彼らは豊かな思いにされ、心を温められたからです。
すべての人のクリスマスの物語が
いやそれどころか、聖書にある二つのクリスマスの物語で終わらないのです。私はそう考えるのです。
冒頭に言いました「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」という言葉は、ここにいる「私たちのために貧しくなられた」と言う意味でもあると信じるからです。ですから私たちにとって、神の子は「飼い葉桶」だけに誕生されたと受け取る必要はないのです。
今日読んでいただいたマタイによる福音書に
『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。これは「神は私たちと共におられる」という意味である』
という言葉がありました。「イエス」という名前の由来は「神は私たちと共におられる」という意味である」と教えていました。ですから「神はここにいる私たちとも共におられる」のです。
ですから今宵は何回も「イエス」という名前を耳にしたのですが、それは「神は、いや神の子であるイエス・キリストが私たちと共に今おられる」ということを心に刻むことだったのです。飼い葉桶だけでないのです。いや、私たち自身が飼い葉桶と同じだと言っても良いのです。
ろうそくの灯火の意味
でもどこに神様が、イエス様が共におられるのか、見ることができません。お互いに五感で感じることもできません。だから私たちは今それぞれが自分の「ろうそくの灯火」を持っているのです。まことに小さな灯火です。これは、神が共に今自分と共にいてくださる、ということを皆様が感じていただくためです。神の子イエスが、私たちの中にいつも共にいて、私たちの毎日を支えて下っていることを忘れないためです。
まことに小さな灯火ですが、周りが暗ければ暗いほど輝いて、私たちに温かさを感じさせてくれるのです。私たちの周りを暗く悲しい出来事や事件が取り囲んでいます。希望が見えず、深刻の闇が覆えば覆うほど、小さな灯火が実に力強く励ましを与え、足元を照らし歩むべき道を指し示してくれるのです。
私たちが少し貧しくなることで
さてここまで、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」という言葉を巡って語りました。「主の豊かさ」とはイエス様のことであり、「あなたがた」とは私たちのことでもあると言いました。でももうひとつ最後に語るべきことがあります。
ここにいる私たちは、健康であるゆえに、平和であるのでここに集うことができました。家に帰れば温かい部屋があり、食べ物をいただくことができます。これは「私たちの豊かさ」のひとつです。感謝すべきことです。そしてそれは「イエス・キリストが貧しくなることによって、私たちが豊かになる」ことともいいました。
とすれば、今度は私たちが「自分を少しだけ貧しくする」ことで、「誰かを豊かにし、温かくすること」ができるのではないか、そう受け取りたいのです。それは様々な意味で、貧しくされている人たちを忘れないことであり、日々の祈りに加えることであり、自分にできる手助けをすることだと思うのです。
そういう方々が遠くの地にも、また近くに地にも、そして自分の近くにもきっといらっしゃるのです。そういう人たちのために、私たちの持てるもののほんの一部ですが、この後分かち合って行きたいと思います。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【主の降誕・クリスマス(12月22日)】
「ありふれた家族の物語」
(ルカ 2:1〜7)
観賞ではなく演者として
今日はクリスマス礼拝となりました。いつものように、旧約聖書と使徒書を読んでいただき、そして福音書はルカによる福音書を読みました。特に福音書は、幾度となく耳にしたことのあるところでした。ですから、ここはよく知っていると、その話なら改めて聞かなくてももう十分である、そういう思いがして来ます。
それと似たような体験をすることがあります。例えば、映画を見ることがあります。ドラマでもコンサートでもスポーツ観戦でも良いのです。便利な時代ですから、何回でも繰り返し見ることができます。でも、さすがに何回も繰り返して観てしまうと飽きてきます。新鮮さがなくなり、さほど興味をもって見ることができなくなるのが普通ではないでしょうか。今日の福音書のクリスマスの物語も同じような感じがして来るのです。
でもそれはやはり違うのです。そもそもクリスマスの物語とは、映画や演劇を鑑賞するということと異なります。つまり、自分は観客席にいて、映像に映し出される世界を楽しむということではありません。私たちも、今日の物語に登場した人たちの誰かの一人として、それを一緒に演じているかのように読まなければ意味がないように思うのです。
子供たちの讃美
別の言い方をしてみましょう。今日はクリスマス礼拝ですから、聖歌隊の皆さんにいつものように賛美をしていただきました。でもいつもと異なることがありました。子供たちが讃美に加わってくれたことです。耳を傾けた私たちの誰もがにこやかな笑顔になりました。
これは子供たちの親ごさんや教会学校の先生たちが、聖歌隊に加わるように指導したのではありません。子どもたち自身が申し出てくれたのです。すでに前回からご両親の横で参加してくれていた子どももいましたが、今回初めて練習にも参加して、今日歌ってくれたのです。
これは教会の礼拝の一つの課題でもありますが、子どもたちが大人を中心とした礼拝に参加することはどうしても難しいところがあります。ですから、大人の礼拝に子どもたちが参加したとしても、自分は観客席に座って、良く分からない、難しい映像が流れているものを眺めているような印象を持つのではないかと思うのです。
でも今日は聖歌隊に加わって、子どもたちも大人と一緒になって歌ってくれました。つまり、観客席に座って眺めているのではなく、自分が礼拝の一つの部分を担い、歌うことで自分が演じ、礼拝の一部を担ってくれたのです。私たちも嬉しくなり、心が温まるような感じがしたのですが、それ以上に子供たちにとってもっと意味があるのです。礼拝の一部を演じる一人になったからです。
ローマの命令に従う人々
では今日の物語に登場した人物の誰に目を向ければ良いのでしょうか。もちろん誕生された神の子イエス・キリストにこそ目を向けなければなりません。イエス様はいつも福音書の主人公であることは言うまでもありませんが、それは宣教を始められてからのことです。でも今日の物語では、誕生したばかりの嬰児です。この主人公に自分を重ね合わせて読むことはなかなか難しいのです。むしろイエス様の両親であるヨセフとマリアに注目し、自分自身を重ね合わせることができるのです。
まず目に入る人物は皇帝アウグストゥスという名前です。ローマ皇帝です。ユダヤの地域はローマが支配していたのですが、皇帝の命を受けたキリニウスという総督がシリア州を治めていました。彼が税金を取り立てることを第一の目的とした住民登録を行っていたのです。聖書の後ろの地図も見ても分かることですが、…つい最近シリアという国で政変がありましたので、そこがどこにあるのか確認することもできましたが…シリアとユダヤにはかなりの距離がありますので、どうしてシリアの総督がユダヤを含めた住民登録を行ったのかやや疑問があるのだそうですが、それはそれとして、驚くことがあります。登録するためにはそれぞれが自分の町へ行って、そこで登録しなければならなかったということです。それぞれと言っても、妻は夫の家計の町に行き、そこで登録をしなければならなかったのです。身重になっていても例外はありません。非人道的で、私たちには理解できないことですが、実際はそうではなかったという専門家もいます。
今の私たちはそんなことはありません。今とでは随分と異なることは間違ありません。でも、私たちがここから読み取らなければならないことは、当時にあっては、誰であっても、総督の命に従わなければならなかったということです。ヨセフも、特に身重のマリアもそれは同じだったのです。もちろん彼らも不満があったことでしょう。しかし、そういう理不尽なことであっても大人しく従うしかなかったのです。
西欧絵画のマリア
私たちはマリアの懐妊と出産をテーマにした西欧の絵画を見ることがあります。その多くが、聖書に記された本当のクリスマスの物語とかけ離れていることに驚きます。以前会報に書いたことがありますが、例えば「受胎告知」を有名な画家たちが描いた絵を見ると、マリアよりも懐妊の告知を行った天使ガブリエルの方が身を低くして、マリアの方が堂々としている絵が多いのです。着飾っている着物もきらびやかですし、住んでいる家も館かどこかのように描かれていますので、私たちが錯覚するほどです。つまり、ありふれた女性でも家族でもないことが強調されています。
しかし今日の福音書のどこにもそんなことは書いていません。ガリラヤの地にしても、ユダヤの地にしても、そこに住む人たちは誰でも住民投票を行う義務があったのです。ヨセフとマリアも同じであったのです。
ありふれた出来事
それどころか、マリアとヨセフは「ありふれた家族」という言葉に納まらないことが生じました。それが「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」(7節)という言葉が表しています。「飼い葉桶」に寝かせるしかなかったのです。これは当時においてはありふれた、よくあることだったのか分かりません。私たちの感覚では「飼い葉桶」に生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせることは普通ではありませんが、もしかしたら、そのようなことは特別に異常なことではなかったのかもしれないのです。
でもはっきりしていることは、クリスマスの出来事そのものは、何か特別なことが起こったのではなく、むしろどこの夫婦、どこの家族にも当時にあっては起こり得るような出来事であったということです。
でもそれが重要なことではないかと私は言いたいのです。なぜなら、何か特別な家族の話であるとすれば、それはここにいる私たちとはあまり関係のない話で終わってしまうからです。最初に言いましたが、私たちはただ観客席や会衆席に座って、クリスマスの物語を鑑賞しているだけに過ぎないことになるからです。
飼い葉桶に注目するルター
では私たちは今日の物語のどこを私たちが演じることができることがあるでしょうか。ルターは「飼い葉桶」に注目しています。飼い葉桶だけではありませんが、ルターがマリヤとヨセフという人だけでなく、「飼い葉桶」に注目する理由が理解できるのです。なぜなら、ルカによる福音書は今日のところでは一回だけでしたが、8節以降の羊飼いたちの話の中で後二回もこの言葉を記しています。やはり意味があるはずです。
ルターはこう言います。
「飼い葉桶はキリスト者が共に集い、神のみ言葉を聞く場所です」
と。さらに続けて「牛とろばは私たちです」と言うのです。私たちが牛とロバというのは驚きますが、でも教会のこと、礼拝堂のことだということはなるほどと思うのです。
教会の形が飼い葉桶をひっくり返したような形をしているところを見ることがあります。きっと飼い葉桶をイメージしているのでしょう。私たちにとっても、今日この礼拝堂にみんな一緒にいて、神のみ言葉を聞いているのですから、まさに飼い葉桶の中にいるイエス様を囲んでいるように考えて良いのでしょう。
土の器
でも、礼拝堂だけが飼い葉桶かと言われれば、それだけではないと思います。むしろ皆さんの日々の生活は礼拝堂にいない時間がほとんどです。また礼拝に集いたくても集えない方々がいらっしゃいます。そういう方々には飼い葉桶を、礼拝堂とのみ狭めることは相応しいことではありません。
私たちの教会では、6年前に「年間主題聖句」としたみ言葉あります。今年度の主題聖句ともつながる言葉です。コリントの信徒への手紙二、4章7節の言葉です。
「私たちは、この宝(キリスト)を土の器に納めています」
という言葉です。この「宝」とはイエス・キリストのことです。私たちは、イエス・キリストという宝を「土の器に納めている」というのです。「土の器」です。しかも二千年前の器です。機械ではなく人の手で作られるものですから、不揃いで、決して精巧なものではなく、脆かったはずです。飼い葉桶に繋がるのではないでしょうか。
私たちは「飼い葉桶」をきれいなものとして連想しがちです。イエス様が寝かされた飼い葉桶は家畜たちのために使われていたものだったはずです。家畜の唾液で汚れていたことでしょう。糞尿の匂いもしたことでしょう。もちろん傷も多かったことでしょう。土の器も同じです。飾り物ではありません。毎日用いたものです。ひびが入り、部分的に欠けている部分があり、汚れも当然目立つものに違いないのです。それがパウロが譬える「土の器」です。
私たちの中にイエス・キリストが誕生している
その土の器のことを、「四方から苦難を受ける」ことがあり、「途方に暮れる」ことも「迫害され、倒される」こともあると言うのです。それが土の器に譬える私たちの生涯であり、日々の生活だと語っているのです。今日のマリアとヨセフの人生がそうだったことを私たちは確認しました。いや二人だけが特別ということではなく、多くの人々の日常もそうだったのです。そして私たちもそうである。
ところが、その「土の器」にはイエス・キリストという宝が納められていると言うのです。私たちはこの言葉こそが、今日の「飼い葉桶」のことであり、私たち自身が「飼い葉桶」に譬えられていることを認めたいのです。
とすれば、今日のクリスマスの物語は、私たちが鑑賞することで終わるものではないことは明らかです。私の中に、あのイエス・キリストが誕生してくださり、納められていることを私たちは認めたいのです。
そうすると何が起こるのでしょうか。パウロはこうさらに言っています。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れることがあっても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません」と。2000年前の、神の子イエスが飼い葉桶に寝かされたというクリスマスの物語が、土の器に譬えられた今の私の中に納めているというのであれば、何と素晴らしい、恵み多き事でしょうか。そう信じられる私たちの上に、神様の祝福がありますように、そう祈りたいのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【待降節第3主日(12月15日)】
「福音を運ぶ方」
(ルカ 3:7〜18)
ヨハネの働き
今日も先週に引き続いて洗礼者ヨハネが登場しました。イエス様は今日の出来事のすぐ後に、ヨハネから洗礼をお受けになります。ですからまさに、イエス様に先立って、イエス様の登場の道備えをしたのですが、そのことが今日のところに書いてありました。
その道備えを具体的に言えば、人々に「悔い改めの洗礼」をヨルダン川で授けたことでした。それが先週読んだ3章1節から6節までのところに書いてあったことでした。先週語ったことですが、読んだ最後の6節は「人は皆、神の救いを見る」という言葉で終わっていたのですが、その「神の救いを見る」ためには、遮るものを取り除かなければなりません。道の向こうに「神の救い」というものが見えるのであれば、道が曲がりくねっていたのでは見えませんから、ヨハネは「曲がった道をまっすぐにしなさい」と、あるいは道が谷あり山ありだと先のものが見えなくなりますから、「でこぼこの道は平らにされなければならない」と彼は言ったのでした。
そういう譬えを用いながら、しかし実際に道路工事をしたのではありません。まず悔い改めること、自分の過ちや悪いことを神様に悔い改めて、それらの罪を洗い流して自分をきれいにすることで、イエス様を自分の中に迎え入れる備えをするように人々に訴えたのでした。その「罪を洗い流す」ということのために、川の水を使って洗礼を授けたのです。それがヨハネの行った道備えというものでした。
ヨハネの神
今日はその続きですが、ヨハネの訴えに心を動かされた人たちがヨハネのいる荒れ野までやって来ました。ところがヨハネの言葉は大変厳しいものでした。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」という言葉でした。
私たちはこれから、ヨハネが授けた洗礼と、イエス様がこれからお授けになる洗礼との違いについて考えて行きますが、それは二人の間の教えの違いを考えてゆくことでもあると思います。その違いがもうヨハネの今の言葉でとてもよく表していることが分かります。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と言ったのですから、ヨハネは神様を「怒りの神」と受け止めていたことが分かります。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」と、口先だけの悔い改めではなくて、心からの本当の罪の悔い改めをしなさいと迫ったわけです。
9節では「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる」と言ったのですから、鬼気迫るものがあったことでしょう。いや恐怖感を持ったに違いありません。
でも私たちの周囲にある宗教というものは、これと同じような教えの構造をしているのが多いのではないかと思いのです。また誰にもそういうことが気になる時があると思います。そういう人が「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と迫力満点の人からいわば脅されるならば、恐ろしくなって「では、私はどうすればよいのですか」と尋ねるのが自然です。いやむしろ表面的には実に柔らかく、優しい言い回しでありながら、でも内実はその人に恐怖感を与えることで、その宗教に帰依させることでもあるのです。
イエスの神
ではイエス様の教えはどうだったのでしょうか。それをこれから私たちはこのルカによる福音書から学んで行くのですが、今日のヨハネが「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねられたときに、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物も同じようにせよ」と教えたことと、とても対照的なイエス様の教えがこの福音書にありますので、それを先んじて取り上げたいのです。それは19章の「徴税人ザアカイ」の話です。
ザアカイという人は金持ちだったのですが、それは規定以上の税金を市民から巻き上げることで、つまり、不正に徴税する徴税人の頭だったのです。だから当然のことですが、みんなの嫌われ者でした。今日のヨハネであれば「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りかを免れると、誰が教えたのか」と、「斧はすでに木の根元に置かれている」「悔い改めなさい」と言われても仕方のない人でした。
ところがイエス様はそんなことは一言も言われません。ただ「ザアカイ、今日は、あなたの家に泊まることにしている」と言われただけでした。実際にイエス様はザアカイの家に宿を取られたのです。そしてザアカイが自ら進んで「私は財産の半分を貧しい人々に施します」と言ったのです。
興味深いことは、ヨハネの下に集まった人たちも「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ」と言われたのですから、下着の一枚を、つまり半分を貧しい持たない人に分けたのでしょう。ザアカイと同じではないでしょうか。少なくともとても似ているのです。
異なるザアカイ
でも二人の教えは全然違います。行ったことは同じですが、それを行った者の思いが全く異なるのです。似て非なることです。
では何が異なるのでしょうか。ヨハネの場合には「神の救いを見る」というときには、悔い改めることが条件です。下着を二枚持っている者は、持たない者に分け与えるという働きが条件です。それらをいわば合格した時に本当の洗礼になり、そこでようやく「神の救いを見る」ことができるのです。
もっと重要なことは、そのようにして洗礼を受けることが喜びとなるでしょうか。それが本当に「神の救いを見る」ということになるでしょうか。いや、それは言い過ぎかもしれません。高いハードルを乗り越え、条件を満たしのであれば、それ相応の達成感がきっとあるのです。でもそれが「福音」と言えるだろうかと私は思うのです。「福音」とは英語で言う「good news」、「良き知らせ」です。そういう心から溢れ出ることであろうかと思えるのです。
ではザアカイの場合はどうでしょうか。イエス様がザアカイの家に留まったのは、彼がヨハネの言ういくつかの条件を満たしたからでしょうか。違います。ザアカイ自身も知らないことだったのですが、もうイエス様は彼の家に「泊まることにしている」と言われたのですから、随分と無遠慮なことですが、ここで言いたいことは、イエス様が運んでくださる福音というものが、ザアカイが何か条件を満たすようなことをする前に、そういうことをしていないのに、その福音が先に彼の家に運ばれたということです。
だからザアカイの喜びは一入だったのです。イエス様がヨハネのように「貧しい人に分けてやりなさい」と命じられることなく、自ら進んで「財産の半分を貧しい人々に施します」と言ったのです。行いは同じでも、それを喜んで分け与えたのはどちらかは言うまでもありません。
今日の本題
今日の話の本題と言うべきことは、ヨハネとイエス様の洗礼の違いはどこにあるのか、ということでした。
ヨハネは「自分は水で洗礼を授けているが、私の後に来られる方は、聖霊と火で洗礼をお授けになる」と言いました。洗礼に水の洗礼があり、そして聖霊と火の洗礼があるという言い方を私たちはすることはありません。実際に教会の洗礼式は水を使う洗礼だけです。火を使う洗礼となるとそれは恐ろしさだけです。ですから、これはヨハネが用いた言い方だと私は思います。
確かにイエス様が「私が来たのは、地上に火を投じるためである」(12:49)と言われているところがあります。恐ろしい言葉です。でもそれはむしろ例外的な言葉です。イエス様の本来の言葉とはかけ離れた教えです。今日のところには、イエス様の火の洗礼のことを「麦は倉に納めて、役にたたない殻を火で焼き尽くされる」(17節)とヨハネが言っているところもありますが、ヨハネがイエス様のことをそういう具合に理解していたことが分かります。
実は、イエス様が宣教を始められてしばらくしてから、イエス様がなされている教えや病人の癒しをされていることを耳にしたヨハネが(もうその時は牢屋に閉じ込められていたのですが)自分の弟子をイエス様の下に送って「来るべき方は、あなたですか。それとも他の方を待つべきでしょうか」(7:18以下)と尋ねるという箇所が7章に書いてあります。ヨハネに迷いが出たのです。今日のところで「私よりも力ある方が私の後に来られる」と言ったのですが、どうもイエス様は「力あるわざ」をされるというよりも、あるいは「火で焼き尽くされる」というよりも、愛の教えを説き、病人を癒されるという働きをされていることを聞いて、自分が描いていた方と違っていることに困惑したのだと私は思います。だから今日の言い方はヨハネのやや誤解した言い方だったのだのです。
イエスの洗礼
ではイエス様の洗礼はどんな洗礼だったのでしょうか。不思議なことですが、イエス様はヨハネから洗礼をお受けになりますが、実は自分自身が群衆に洗礼を授けることはなかったのです。ある福音書にはわざわざ「洗礼を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちであった」(ヨハネ4:2)と書いています。ですから今日のヨハネが「イエス様の洗礼」について語ったことは、実際には起こらなかったことになります。
さて、この問題はやや話が込み入って来ますので、ここで話を止めますが、でも私たちは、今日の主題であるヨハネの洗礼とイエス様の洗礼の違いをしっかりと受け取らなければなりません。私が今語りましたことは、ややもするとイエス様は洗礼というものを大切にされていなかったように聞こえるかもしれません。つまり、洗礼をどうでもよいと、軽視されていたかのように感じるかもしれませんが、そうではありません。
教会の洗礼は言うまでもなくとても大切なものです。イエス様もご自身が洗礼をお受けになったのですから、それが一つの証拠です。でも、ヨハネが説いたような洗礼を大切にされたのではなかったのです。ここを私たちは今日学びたいのです。
ヨハネとイエスの小さな、しか大きな違い
ヨハネの洗礼について最初に語りました。まず悔い改めなければならないのです。そして次に水の洗礼を受けるのです。しかも中途半端な悔い改めでは駄目でした。厳しさと神の怒りを忘れてはいけないのです。貧しい人たちに分け与えることも命じられるのです。そうすることで、それが満たされたならば「神の救いを見る」ことができるのです。
ところが、イエス様の場合には明らかにそれとは異なったのです。ザアカイの物語がその違いを実に明瞭に指し示していたのです。ザアカイは不正で私腹を肥やしていたのですが、彼の家に入ってくださったのです。悔い改めもしないのに、そして洗礼を受けてもいないのに、まして自分の財産を貧しい人たちに施すこともしていないのに、つまり何の条件も満たしていないのに、福音を運んでくださったのです。
ザアカイも財産の半分を貧しい人たちに分け与えたのです。不正を悔い改めたのです。きっと洗礼も受けたことでしょう。大事なことは、ザアカイが何の条件も満たしていないのに「神の救い」を見ることができたということです。その後に。悔い改めが、洗礼が、善い行いが強制されることなしに、喜びと感謝をもって自ずと出てきたということです。ヨハネとの違いはわずかなことのように思えるかもしれませんが、実に大きな違いがあったのです。どちらを選び取れば良いのか、この待降節に思いめぐらしたいのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【待降節第2主日(12月8日)】
「神の救いが見えているか」
(ルカ 3:1〜6)
歴史の話?
今日の福音書の登場人物は洗礼者ヨハネです。人々に洗礼を授けることを主な働きとした人物でしたから「洗礼者ヨハネ」とか、洗礼のことを「バプテスマ」と呼ぶことがありますので「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人でした。
このヨハネはどの福音書にも出てきますが、ルカによる福音書が明らかに他の福音書と異なることがあります。それは当時の、この地方を治めていた人たちの名前が詳しく書かれていることです。まるで歴史の勉強をしているかのような錯覚に陥るほどです。私たちにとっては聞きなれない人たちが幾人も出てきますので、読み飛ばしてしまうほどです。でも折角ですから、少しだけ彼らのことを辿りましょう。
それぞれの支配者たち
皇帝ティベリウスとは当時のローマの皇帝のことです。クリスマスの時に、イエス様の誕生を記したこの福音書の2章1節からを読みますが、そこでは「その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という出だしから始まります。この「皇帝アウグストゥス」の後を引き継いだのが「皇帝ティベリウス」です。
次に「ポンティオ・ピラト」という名前が出てきますが、このピラトは皇帝からユダヤの地の統治を任されたのです。イエス様の裁判をしたのがこのピラトですし、私たちが礼拝の度に唱える使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えますが、それがこのピラトであることは言うまでもありません。
次に「ヘロデが」と名前が出てきます。「ヘロデ」という名前は他の箇所にも出てきますのが、やや混乱するのですが、この地域をローマ皇帝の許可を得てヘロデ一族が治めていたからです。クリスマスにも「ヘロデ」という名前が出て来ますが、そのヘロデの子どもが今日の「ヘロデ」です。彼がイエス様が主に活動されたガリラヤ地方を任されていたのです。
後の名前はもういいでしょう。聞きなれない土地の名が出てきましたが、みんなガリラヤから北か東にあった地名です。聖書の後ろにある地図をご覧になれば大体わかるはずです。
ただ、最後に2節の言葉に目を向けましょう。「アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でゼカリアの子ヨハネに臨んだ」とあります。ある註解書を読んでいましたら、「大祭司というのはたくさんいる祭司の中の一番偉い祭司で、一人しかいないはずだ」と書いてありました。でもここには二人の名前がありましたから、おかしいことになります。でも続けてこう書いてありました。「カイアファはアンナスの娘婿に当たる人で、アンナスはカイアファの義理の父親になる」と。アンナスは引退した後、カイアファに大祭司の椅子を譲りながら、でも実際は自分が依然として権力を握っていて、いわば院政を敷いていたらしいのです。
支配者たちではなく、ヨハネに
このような話はどこにでもあるような話ではないでしょうか。政治の世界だけではありません。ここまで名前を挙げただけですが、当時の人たちは、皇帝にしろ、総督にしろ、ヘロデたちの名前にしても、彼らの名前を聞くだけで、どれほど彼らはこの地域に住む人々を虐げ、苦しめるようなことをしているのか、すぐに理解できたのではないかと思います。だから2節で、「アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」と書いてあることはとても意味があるのです。
この世の支配者の名前を順々に挙げながら、そして最後にユダヤ人たちの最も頂点に立つ宗教的指導者祭の名前までも挙げながら、「神の言葉は、荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」と書くのです。つまり、そういう人たちがいるところではなく、「荒れ野にいるヨハネに臨んだ」と言っているのです。
イザヤ書40章の言葉
でもどうして神の言葉が臨むのは、荒れ野にいるヨハネでなければならなかったのでしょうか。そのことを悟らせるためにイザヤ書の言葉を挙げていましたが、40章にある言葉です。そこと少しずつ異なるものですから、何回か読んだのですが、よく分かりませんでした。もし皆さんの中で理解できた方がいらっしゃれば、むしろ教えていただきたいのです。でもきっとこう読むべきではないかと思うのです。
まず「荒れ野で叫ぶ者の声がする」というのは、ヨハネのことです。荒れ野で叫んだのはヨハネですからはっきりしています。
次の「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」というのは、ヨハネが人々に語った言葉です。そういう勧めをしたのです。イエス・キリストがこれから来てくださり、皆に福音の教えを説いてくださるのだから、「主の道に備えなさい。その教えが自分の中にすっと入るように、その教えがどこかにつかえて、通りが悪くならないように、その道筋をまっすぐにして準備をしなさい」と勧めたのです。ここも問題ありません。
そして次の5節の言葉ですが、ここもヨハネが人々に勧めた言葉のように続けて理解しようとすると、どうもうまくつながらないのです。だから補足して読まなければならないと思います。「谷をすべて埋めよ」と言うのであれば、人々に勧めた言葉になりますが、そうではなく「谷はすべて埋められ」と書いてありますから、そうではないのです。これは「悔い改めの洗礼」のことではないかと思います。ヨハネのところにやって来て洗礼を受けることで、谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされたのです。そして「でこぼこの道が平らになった」のです。
そうすることで、6節に書いてある言葉がつながります。そうすることで「人は皆、神の救いを見るだろう」と言うのです。
邪魔をするもの
このようにやや面倒なことが書かれているのですが、でもこのように受け取ることで、教会にとってとても重要な「悔い改めの洗礼」のことがよく分かるように感じるのです。
教会で行われる洗礼はとても大切なものですが、私たちに大きな意味を与えてくれるから大切なのです。それによって「人は皆、神の救いを見ることになる」からです。言い方を変えると、人が神の救いを見ることができないのは、それを邪魔するものがあるからです。それをイザヤ書は「道が曲がっているからだ」とか「山が、あるいは谷が邪魔をして、見えなくなっている」という言い方をしているのですが、それは私たちの日常にあることを言っているわけです。
例えば、私たちは日常の中で様々なことに思い煩います。イエス様が山の上で人々に語られた説教の中に「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩うな」(マタイ6:25〜)と言われましたが、これはそのようなことに目を奪われてしまって、そのような煩いが邪魔をして、大事なことが見えなくなってしまっているという意味でしょう。
ですから「悔い改めの洗礼」とは一つのことではなくて、実は二つのことが語られているわけです。
悔い改めの意味
まず「悔い改め」ということです。繰り返し語っていることですが「悔い改め」とは「方向転換」という意味があります。見る方向を転換するということです。世の煩いの中で私たちは生きざるを得ませんので、そこにどうしても目線も意識も向かいます。だから方向転換がどうしても必要になるのです。。
今日の最初に「皇帝ティベリウス」とか「総督のポンティオ・ピラト」たちの説明をしました。私たちの今で言えば、世界中の大国の指導者たちを連想してしまうかもしれません。希望よりもはるかに不安が優るのです。そこに目が行くのです。
でも私たちはそこだけを見つめることでは「神の救いが見えなくなっている」ことに気づかなければなりません。だから神の救いの方に目を向けるために方向転換するのです。「悔い改め」とはそういう意味です。
でも方向転換することで、神の救いというものが見えたとしても、それが見えただけに終わってしまってはいけないのです。その神の救いが、自分の中に来なければ本当の救いにはならないのです。ヨハネが授けた洗礼は、まさにイエス様の道備えだったのです。イエス様が人々に中に来てくださる道を備えたのです。だから洗礼も道を整えることだったのです。
洗礼の意味
「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(3節)という言葉がありました。洗礼は水を用いて、まるで汚れを洗い流すかのような儀式です。汚れとは「罪」のことです。だから洗礼は罪を洗い流すという意味も持つのですが、でもそれで完了するのではありません。私たちの国の習慣に、お正月を迎えるために大掃除をすることがあります。水を使って汚れを洗い流すことが目的ではないはずです。お正月を迎えるために大掃除を行うのです。
洗礼もこれと同じである。今日の言葉で言えば「神の救い」を迎え入れるためです。イエス様の福音を見るだけでなく、それを自分の中に迎え入れるために洗礼を受けるのです。
主の言葉が臨むところ
さて最後に、ヨハネが荒れ野にいたことに目を留めたいと思います。ヨハネは荒れ野にいたので「主の言葉が臨んだ」と冒頭に言いました。では、私たちも「荒れ野」という人気のないところに退かなければ、神の言葉は臨まないのかということになり兼ねません。
来週は今日の続きを読みますので、そこでも触れることになるかもしれませんが、ヨハネとイエス様の違いがどこにあるのか、そういうことが話題になります。その違いの一つですが、ヨハネは荒れ野にいたのに対し、イエス様は人々の暮らしの中にやって来られたことが注目されるのです。そしてまた町の中にある「会堂」と呼ばれる小さな礼拝堂での礼拝に集われたのです。決して「荒れ野」にいる人にだけ神の言葉が臨んだのではないのです。
このことは、読んでいただいた旧約聖書のマラキ書にも書いてあることでした。3章1節の言葉です。
「私は使者を遣わす。彼は私の前に道を整える。あなたが求めている主は、突然、その神殿に来られる」と。
私たちは「神殿」という言葉をこの「礼拝堂」と考えたいのです。この礼拝堂は荒れ野に、あるいは山の上にあるのではありません。今日の冒頭の当時の支配者たちと同じように、この世界の指導者たちに翻弄されることから無関係のところに礼拝堂があるのでもありません。そのただ中で私たちは生きているのです。すなわち、そこに目と意識を向けざるを得ない6日間を過ごすのです。でも今日はその目を方向転換して、ここに集うたのです。ここに「主の言葉が臨むのです」。
この日をこれからも大切にしたいと思うのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
待降節第1主日(12月1日)】
「神の国は近い」
(ルカ 21:25〜36)
暦は替わったけれでも
今日から新しい暦に入りました。毎年のことですが、福音書がこれまでのマルコによる福音書からルカによる福音書に替わります。今日から早速そうでしたが、この一年間主にこの福音書を説教では取り上げることになります。
今日は21章の25節から36節まででしたが、先々週からずっと同じような内容のことを読んでいるように感じられます。先々週と先週まではマルコによる福音書から読んだのですが、先々週の場合には、エルサレムの神殿が大変立派な建物だったものですから、弟子たちが建物に見とれていたところ、イエス様がその神殿を積み上げている見事な石が一つ残らずに崩れ落ちてしまうのだと、イエス様が予言をされたという話でした。戦争が起こることを予言されたのですが、イエス様が地上を去って行かれてから40年足らずで、実際にそうなったしまったということをその時にお話ししました。
そして先週は旧約聖書のダニエル書とヨハネの黙示録を読み、そこにこの世の終わりに関することが書かれてあったことを確認しました。イエス様ご自身が「私はアルファでありオメガである」と、すなわち「私は初めであり、終わりである」と言われたのだから、イエス様はこの世の終わりの支配者でもあるという教会の信仰を語ったのです。ですから、イエス様の声に、その教えに聞き従うことが最も大切なことではないかと説教しました。このように、教会の暦の終わりに読まれるところの、「この世の終わり」に関することを取り上げて行ったのです。
救いが近づいている
そして、今日から暦が新しくなったということを先ほど言いましたが、しかしその内容は、先々週からとほとんど変わらないテーマであることにやや不可解さを覚えるのです。正直に言えば「また、そういう話か」という印象を禁じ得ないのです。今日も福音書には似たようなことがまた書かれているからです。
例えば、「地上では海がどよめき荒れ狂う中で、諸国の民は恐れおののく」(25節)と書いてありました。大きな津波のようなことを連想します。26節では「人々は、これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失うだろう。天の諸力が揺り動かされるからである」とあります。私たちが今世界中で起こっていることを表現しているようにも思えますし、私たちの誰もが今の世界情勢をみながら将来に不安を感じていることを助長するようなことが書かれているように、今日の箇所からも感じます。
確かにそう思えます。しかし、それだけではないことを今日私たちは読み取りたいのです。と言うのは、今言いました26節に続いて読んでゆきますと、27節で、
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」
と言っているからです。
「人の子」とはイエス様のことです。「イエス様が雲に乗って来るのを、人々は見る」とは、どうも具体的には想像しがたいのですが、その次の28節の言葉が今日とても重要ではないかと思うのです。こう言っています。
「このようなことが起こり始めたなら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ」と。
「このようなこと」とは天変地異のことでしょう。でもそれだけでなく、先々週も先週も戦争のことや飢饉のことなど様々なことが挙げられていましたが、私たちがもう聞きたくもないような悲惨なこの世の出来事のことです。そういうことを私たちはずっと耳にして来たのですが、実はそれは先週までのことなのです。
今日も同じようなことが確かに書いてあったのですが、でもより重要なことは、「そのようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。なぜなら、あなたがたの救いが近づいているからだ」と、このことを私たちは受け取らなければならないのです。
神の国は近い
ですから29節からの、次の段落もそうでした。いちじくの譬えです。
「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと悟りなさい」
と言われていました。先ほどは「あなたがたの救いが近づいている」と言われましたが、そのことを「神の国は近い」と言われています。ですからここでも、様々な恐ろしい出来事や事件のことが書かれてたとしても、また見過ごすことができないようなことが起こり、この世の終わりと言えるようなことであったとしても、待降節を迎えた私たちはもう一つの別のことにこそ目を注がなければならないのです。「これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと悟りなさい」という教えです。このことが今日のもっとも大切なことです。
酒に関すること
もちろんそれは簡単なことではありません。でも何か特別なことを行なうことでもないのです。他の人にない特別な賜物がないとできないというようなことでもないのです。誰にでもできることなのです。しかしそれは気楽になし得ることではないのです。そういう意味で「簡単なことではない」のです。
34節に「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とありました。以前の聖書訳には「二日酔い」という言葉ではありませんでしたが、今度はこのような言葉になりました。皆さんの中には気になる言葉に聞こえる方もいらっしゃることでしょう。この元々の言葉は新約聖書の中でここにしかない言葉だそうですが、「頭が揺れる」という意味から出てきた言葉だそうです。酒を飲み過ぎて翌日頭痛がする、そういう意味でしょうから、健康のためにもよくないことは誰でも分かることです。
ご存じのように、キリスト教が明治時代に入って来たころは、宣教師たちの多くが「禁酒禁煙」を説きました。やや笑い話ですが、ルーテル教会の代表者であるマルティン・ルターはドイツ人でしたし、彼が入った修道院ではミサを挙げるときはもちろんですが、食事の際にワインを飲むことは普通のことですから、ビールを飲むこともワインを飲むことも問題にしませんでした。でもそういうおおらかな教派は、海外宣教などにはあまり熱心ではなかったのです。むしろ、伝統的な教派に飽き足らない熱心な伝道者たちが、日本を初め海外宣教に取り組んだのです。ですから日本伝道でも、ルーテル教会はかなり遅れてのスタートになったのです。
いつも目を覚まし祈ること
でも、34節の言葉をもう一度丁寧に読むならば、「二日酔いや泥酔や生活の煩いで」と言うのですから、これは「禁酒禁煙」の話ではないのです。飲むことが「過ぎる」ことです。それが繰り返されることです。生活の煩いでも同じです。そこに埋没することに「注意しなさい」と言われるのです。しかもそういうことを「してはいけない」と、命令されているのではありません。「注意しなさい」と、促しているのです。
でもこの段落の最後の言葉がより重要です。36節の言葉です。
「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」。
様々な恐れおののくこと、不安に苛まれること、そういうことが起こっているとしても、逃れることができるように、そして人の子が来てくださるときにその方の前に立つことができるように、「いつも目を覚まして祈っていなさい」と言われたのです。ここでは「注意しさない」とは言われていませんし、より強い言葉で「いつも目を覚まして祈っていなさい」と命じられたのです。
私は先ほど「簡単なことではない」、でも「誰にでもできること」と言いました。まさにこれがそうなのです。これは技術とか、能力とかの問題ではありません。もちろん「一睡もしないで目を覚まして祈っていなさい」ということではないはずです。それは誰にもできないことです。でも一日のどこかで「いつも目を覚まして祈る」ことはできるはずです。一週間に一度、例えば日曜日の礼拝で「いつも目を覚まして祈る」ということでもあるでしょう。毎週は無理としても、自分にとっての「いつも目を覚まして祈る」ということが重要なのです。
神の国はどれほど近いのか
さて、さきほどいちじくの木の譬えの中で「これらのことが起こるのを見たら、神の期には近いと悟りなさい」という言葉があったことを語りました。「イエス様が雲に乗って来る」ということが「神の国は近い」という言葉で言い換えられているのです。ですからイエス様のことが「人の子」と呼ばれ、また「神の国」のこともイエス様のことと言って良いことが分かります。
この「神の国は近い」という言葉は、他の福音書では、イエス様が宣教を始められた時にすでに言われたと書いてあります。例えばマルコによる福音書ではイエス様が最初に言われた言葉が「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉だったと言っています。でも今日の話では、イエス様がこの後にすぐ最後の晩餐をお迎えになる時に話ですから、もう2年乃至3年近く経っている時の話になります。ですから「神の国は近い」と言っても、どれほど近いのかそれぞれに違うように思えるのです。
神の国の二つの意味
それどころか、このルカによる福音書にだけにしかない「神の国」のとても有名な話が17章21節に書いてあります。ファリサイ派の人々がイエス様に「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのです。するとイエス様が「神の国は『ここにある』とか「あそこにある」と言えるものではない。神の国はあなたがたの中にあるからだ」とお答えになったのです。もう「あなたがたの中にある」、いや「イエス様はもうあなたがたの中にいる」ということなのです。
ですから、様々な意味で「神の国は近い」ということが書かれていますので、私たちは混乱するのです。でもこう考えたいのです。
この世の終わりがいつかは起こり、その前に様々な恐ろしいことが起こったとしても、私たちキリスト者にとって忘れてはいけないことは、それはイエス様が再び来られることなので、救いの時である。イエス様によって神の国がもたらされる時である。それを信じるのです。それでもう十分なのです。
でももう一つ重要なことは今の私たちのことです。今の信仰生活のことです。「神の国は私たちの中にもう来ている」とも言われるのです。それをいつも忘れないために、いつも目を覚まし祈るのです。み言葉に聞き、聖餐の与かるのです。それで十分なのです。 アーメン
11月:聖霊降臨後最終主日(11月24日)〜全聖徒主日(11月3日)
【聖霊降臨後最終主日(11月24日)】
「暦の終わりに考えること」
(ヨハネ 18:33〜38)
黙示の意味
教会の暦は今日で最後の主日となります。次週から待降節、アドベントに入ります。最終主日の礼拝では、読まれる聖書箇所が決められています。この世の終わり―終末と言いますが―終わりの日があることを覚える箇所が選ばれます。旧約聖書はダニエル書を読んでいただきました。第二は、ヨハネの黙示録でした。二つの書とも幻のような出来事が書いてありました。「黙示」という言葉そのものが日常生活ではあまり耳にする言葉ではないのですが、教会にいる者でもはほとんど耳にすることはありません。ですから、暦に終わりを迎える時に「黙示」に関することを取り上げるのです。
そもそも「黙示」とはどういう意味でしょうか。元々の言葉は「覆いをはずす」とか「覆っているものを取る」、そういう意味があるようです。覆っているものが重要なわけですが、それは神様の秘儀、奥義というものですから、本来私たち人間には知り尽くすことはできないものです。でも覆いを取ってもらうことで、神様の秘儀というもののほんの一部を知ることができるのです。
教会の暦の最終主日を迎え、この世の終わりのことを私たちは覚えているのですが、それがどんなことなのか、それがどういう形でやって来るのか、それはいつなのか、イエス様はどのようにして現われるのか、すべてが本来神様の秘儀であり、奥義です。でもその一部を描いているのが、今日のダニエル書であり、ヨハネの黙示録だと言えるわけです。
ですからダニエル書もヨハネの黙示録も幻のようなことが書いてありました。この二つの書を書いた人がどんな人だったのか正確には分からないのです。幻のような、幻覚を見たかのような書き方をしていましたが、でも実際は自分が生きている時代に、身近なところで起こった出来事を描いているのだと言われます。
それを後代の人たちは、これから起こることを予言者のようにして描いているのだ、そう理解して来たのです。ですから私たちもそれと同じです。まだこの世の終わりは来ていません。でも、もし世の終わりが来るとしたら、きっとこういうことが起こり、こういう形でやって来るのではないか、そういう読み方もして行くのです。
人の子が雲に乗って
さて、ダニエル書と黙示録に目を留めたいのですが、二つの書に共通して書かれている言葉がありました。ダニエル書には「見よ、人の子のような者が天の雲に乗って来る」(7:13)という言葉がありました。ヨハネの黙示録も「見よ、この方が雲に乗って来られる」(1:7)という言葉です。「この方」と今日のところには書いてありましたが、14章(14節)には「人の子のような方が」と書いていますので、ダニエル書もヨハネの黙示録も同じように、この世の終わりには「人の子が雲に乗って来られる」と書いているのです。
「人の子」とは誰のことかと言いますと、言うまでもなくイエス・キリストのことです。最初に言いましたが、「黙示」という言い方でこの世の終わりのことを語る時には、そもそも謎めいたことですから、いつもとは異なる言い方を聖書はしています。「イエスは」とか「イエス・キリストは」といつものように言えばよいのに、わざわざ「人の子は」という言い方をするのです。
それにしても「イエス様が雲に乗って」というような光景を、私たちは現実的なこととして想像することがなかなかできないのですが、ここで重要なことは、そういう不思議な光景を想像することではないと思います。もっと大切なことは、このようにして来られるのは何のためなのかということです。
今日読んでいただいた黙示録の最後に「主がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである』」とありました。アルファはギリシャ語ですが、英語で言えば「A」に当たります。オメガは最後の「Z」に当たります。ですから「初めであり、終わりである」という意味です。
アルファであり、オメガである
多くのルーテル教会がそうですが、私たちの教会でも聖卓の布の真ん中に不思議な刺繍されていますが、皆さんから見て左に英語の「A」が描かれているように見えますが、そうではなく「アルファ」という文字です。右の方に「オメガ」と描かれています。ですから黙示録の言葉です。「私はアルファであり、オメガである」。この「私は」とはイエス・キリストですから、布の真ん中には英語の「X」に見える言葉と「P」のように見える文字があります。これもギリシャ語ですが「キリスト」と意味する言葉です。
ですから実は私たちは礼拝に集うごとに今日の黙示録の「私はアルファであり、オメガである」という言葉を目にしていることになるのです。ではそれはどういう意味か。「私は初めであり、終わりである」とは、初めから終わりまで、すべてを治めているという意味に教会は受け取って来たのです。それは時間だけのことではありません。すべてという意味です。この世の終わりの時も、イエス・キリストがご存じであり、それを支配されている、そういう意味に私たちは受け取るのです。
もしイエス様が終わりの日に「雲に乗って来られる」のだとすれば、すべてを完成されるためである、そう受け取るのです。それならば、すべてをイエス様に委ねれば十分である、それが今日の暦の最後の主日に覚えることなのです。
「真理」とは
さて、今日の福音書のヨハネによる福音書の18章に目を注いでゆきましょう。ただ、なぜイエス様の十字架の直前の箇所を今日読むのか、やや分かりにくいのです。十字架にかけることを許すべきかどうか、ローマの総督であったピラトという人物からイエス様が取り調べを受ける場面が今日の箇所です。
この福音書の特徴のひとつが「真理」という言葉が何回も出て来ることです。これほど何回も出て来る福音書は他にありません。今日のところにも後半に「真理」という言葉が三回も繰り返されました。「真理」という言葉から私たちが抱く印象はどんなことでしょうか。何か難しそうなイメージではないでしょか。哲学を代表とする学問の領域で探求するイメージです。正直、あまり興味がないとさえ抱く印象です。事実、イエス様を何回か問い質したピラトが「真理とは何か」と、ギリシャの哲学者との真理を巡る問答をしているかのような印象があります。
しかしそれは違うのです。そもそも「真理」という言葉には哲学めいた印象がどうしても拭えないのですが、この言葉の本来の意味するところは「隠れていない」という意味だと言われます。ありのままと言ってもいいのです。今日の冒頭で「黙示」という意味は「覆いを取る」とは「覆いをはずす」という意味だと言いました。終わりの日のことはベールに包まれて分からないので、ダニエル書や黙示録などを読んで、覆いを取ってもらうしかないと言いましが、でも「真理」も覆いがかかっていないのです。だから、イエス様の教えには隠し事はなかったのです。
真理から出た者は
ですからイエス様の教えは、本来「真理とは何か」と言って頭を悩まし、学問を追求するようなことではなかったのだと私は思います。ですから今日もイエス様は「真理から出た者は皆、私の声を聞く」(18:37)と言われたのです。「私の声を聞く」となっていますが、これは聞くだけでなく、「聞き従う」という意味を持っている言葉です。「真理とは何か」と問うことももちろんあるでしょう。でもそれは学問的に、哲学的に追い求めるという意味ではありません。イエス様の教えははっきりしていて、覆いがかかっているような教えではないのですから、考え込むのではなく、耳を傾け、従うだけなのです。イエス様の教えを聞き、イエス様と一緒に歩み始めるのです。具体的にその教えに生きることです。たとえ教え通りにいつも生きられないとしても、その教えに立ち戻りながら、生涯歩むことです。それが「真理」という言葉が語られている意味です。
もうひとつ付け加えることがあります。「真理から出た者は皆」と言われましたが、これを聞くと、「こっちの人は真理から出た人」で、「あっちの人は真理から出た人ではない」というふうに、人によってどっちかに分けられているように聞こえますが、そうではないと私は思います。
創世記の1章の天地創造の話にこういう言葉があります。神様が7日間で天地を、人の命までも造られた後に、「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」(1:31)と書いてあります。「すべてのもの」を御覧になって「それは極めて良かった」と言われたのですから、本来人は皆「真理から出た者」だと私は思うのです。だから、私たちは誰もが皆、イエス様の教えに聞き、そして従うのです。
もう一つの「真理」という言葉
この福音書では「真理」という言葉が他にもたくさん出てきますが、もうひとつ目を留めたいところがあります。それは14章6節の言葉です。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く
ことができない」
というイエス様の言葉です。ここにも「真理」という言葉が出てきます。今「真理から出た者は皆、私の声を聞き従う」ということを語りましたが、このことをここでは別の言い方をしているように思えます。イエス様の教えを「道」に例えるのです。その道を「真理であり、命に至る道」だと教えるのです。この道を辿るならば、父なる神様のもとに―それは天の国と言っても良いのですが―行くことになると言われたのです。
それぞれの召天者たち
今日は教会の暦の最終主日です。この一年間を振り返る時でもあると思います。私が振り返ることは、この一年間に私たちが礼拝を共にして来た三人の仲間が天に召されたことです。1月2日にNさんが、9月1日にはWさんが、そして先週の20日にはKさんが天の国へ帰って行かれました。
それぞれの人生と病との戦いがあり、それぞれの異なった形での葬儀が営まれました。でもそれぞれが共通していたことがあったと思うのです。イエス・キリストの教えを聞き、それに従う歩みをされたということです。それは「真理から出た者」の歩みではなかったということです。
別の言い方をすれば、イエス・キリストの道を「真理の道、命の道」と信じ、その道を辿ることが天の国へと導かれることを信じて行かれたのではないかと思うのです。それぞれに異なる葬儀を営まれましたので、それぞれの事情を察するのです。しかしこの礼拝堂でイエス様の教えを聞き、それに従う思いを抱くことを大切にされた三人の信仰者のご生涯を、暦が終わりを迎える時に記憶に留めたいのです。
Kさんの場合には、二年間の病院生活の中でお見舞いする機会が幾度かありました。体調のよろしい日もありましたが、対話を交わすことはできませんでした。でも驚くほどいつもにこやかでした。私自身が励まされて後にしたのです。もちろん異なる病床生活を過ごされる方もいらっしゃるでしょう。それもそれぞれでしょう。でも最後まで信仰者と生きられたことは間違いないと思うのです。イエス・キリストの道を生涯を通して歩まれ、その道に導かれて天の国へ帰って行かれたのです。真理から出た者として歩まれたのです。三人の召天をそう覚えたいのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【聖霊降臨後第26主日(11月17日)】
「惑わされてはならない」
(マルコ 13:1〜8)
弟子たちが見た石壁
教会の暦が終わりに差し掛かって来ました。来週が暦の最終主日になります。ですから、今日は最後の週ではありませんが、選ばれた聖書箇所はいずれも「この世の終わり」というものを思わせるところでした。
今日も福音書を読んでゆきますが、イエス様の弟子たちが神殿を訪れていた時の話でした。弟子の一人が神殿を囲っている高い壁を見ながら「なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう」とイエス様に向かって語りました。弟子たちが目にした神殿の石の壁は、今は崩れて残った一部しかありませんが、元々は大変立派なものだったのです。ですから弟子の言葉に偽りなく、本当に感心したのです。
ところがイエス様が返答された言葉には、どこか陰があったのです。「この大きな建物に見とれているのか。ここに積みあがった石は、一つ残らず崩れ落ちる」と言われたからです。
崩壊した神殿の歴史
これまでも幾度となくエルサレムの神殿については語ってきましたが、今日も少しだけ解説したいと思います。イエス様が生きておられた時にはまだ立派な神殿の姿をしていたのですが、イエス様が天に帰って行かれて40年足らずしたころに、一部の壁だけを残して崩れ落ちてしまいます。ローマ帝国とユダヤ人たちとの戦争がこの時期に起こったからです。ローマの力には到底及ばずユダヤ人たちが負けてしまうのですが、その時にエルサレムの町もそうですが、信仰的な支柱である神殿も徹底的に破壊してしまったのです。ですから、イエス様の今日の言葉が実際に起こってしまうのです。予言通りであったと言えるわけです。
多くの神学者たちはこうも言うのです。この福音書が書かれたのは神殿が滅ぼされた後なので、このことを知ってこの福音書が書かれている。だから、懐かしむように、イエス様があの時、こういうことを言われたな、という具合にここを書いたのだろうと。他にも様々な見解があるのですが、それはよいでしょう。
ですから、ここで覚えたいのは、イエス様の今日の言葉は、空想ではないということです。実際に神殿がなくなるという大事件が起こってしまったのです。そしてその時に、どんなことが実際に起こったのか、私たちはそのことまでも連想しなければならないと思うのです。
パレスチナ地域で起こっていること
なぜそう思うのでしょうか。エルサレムの神殿が徹底的に破壊されてしまったと、2000年前のことがここに書いてあったのですが、この「エルサレム」という言葉を聞いて、私たちの誰もが頭に思い浮かべることあると思うからです。今エルサレムのある地域で、パレスチナの地域で何が起こっているのかということです。
今日の福音書の話は、エルサレムの町、そして神殿が滅ぼされてしまうという話です。ユダヤ人がローマ帝国から弾圧を受け、殺され、傷つけられ、財産も生活も自由も奪われてしまったという話です。しかしいま、この地域で起こっていることはどんなことでしょうか。今は逆に、イスラエルが圧倒的な武器と弾薬を使って、パレスチナの住民の町の建物を、財産を、生活を、自由を、そして幼子の命さえも奪っています。悲惨な惨劇が起こっているのです。
なぜそんな悲惨なことが起こっているのか、どこに原因があるのか、そういうことをここで語ることはできません。これまでの複雑な歴史を含め、様々な要因があるはずでから、私の稚拙な意見を述べることはここでは相応しくないと思うのですが、でも見逃してはいけないことがあると思います。
それは今日のイエス様の言葉には、エルサレムの神殿で起こった悲劇に留まらず、いつの時代にも繰り返されている他の惨劇も語られているということです。7節には「戦争」という言葉がありました。私たちが毎日耳にしている言葉です。8節には「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」という言葉もありましたし、「方々に地震があり、飢饉が起こる」という言葉もありました。天変地異のことです。自然災害のことであり、食料飢饉の問題です。
これらのことを最後に「産みの苦しみの始まりである」と言われたのです。つまり戦争にしても、地震にしても、飢饉にしても「人々の苦しみ」を産み出しているということです。惨劇を産み出し、悲劇を積み上げているのです。これがいつの時代も変わらないことであり、今この時にも繰り返されていることなのです。それが収まるどころか、益々将来に向けて案じられているということではないでしょうか。
惑わされた体験
ではそうすればよいのか。私たちに何ができるのか。イエス様が今日何を語られたのでしょうか。それを掴むことが今日の礼拝の目的です。
まず目に留まるのは「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)という言葉です。この「人」とは「大勢のイエス様の名を名乗る者」のことでした。人を騙す者たちです。宗教家のことです。人を惑わす教祖たちのことを言われたのです。
この言葉から、私が信仰の道に入ろうとしている時に「惑わされようとした」ことを思い起こします。キリスト教に興味を抱き始めていた学生の時でしたが、教会なるところに一度も足を踏み入れたこのない私にとっては、教会に行ってみたいと思ったところで、どこに教会の門を叩けが良いのかまったく見当がつきませんでした。
その頃、街中を歩いている時にチラシをもらいました。すべては覚えていませんが、はっきりと記憶していることは、しばしば世の中を騒がせている「統一協会」の教祖である文鮮明という人の大会の案内でした。幸いにその大会に行くことはありませんでしたが、でも惑わされたことを記憶しているのです。この人が今のキリストなのかと。
それからしばらくして縁あってルーテル教会に通うようになりました。このことは以前お話ししたことがありますが、私が教会に通っていることを聞きつけた同じ学部の同級生の二人から、幾度となく下宿を尋ねられ、統一協会への勧誘を受けたことを覚えています。人には「惑わされる」ということが、隙を突くような悪なる者の企みによって起こり得るという体験をしたのです。
付いて行ってはならない
今日の話は、ルカによる福音書の21章にも書かれてありますが、そこでは「多くの人を惑わすだろう」という言葉の後に「付いて行ってはならない」という言葉が付け加わっています。興味深い言葉です。「多くの人を惑わすだろう」と言われるのですから、多くの人が惑わされるのです。迷うこともあるのです。でも「付いて行ってはならない」、この言葉がルカによる福音書にあるのです。
どんな意味だろうかと考えるのです。付いて行くとは、自分の今いるところから立ち上がって、そこから離れることです。本当は留まっているべきところがあるのです。離れては行けない大切な場所がある、そういう意味ではないかと思うのです。
もう一つ目を注ぎたいのが「慌ててはいけない」という言葉です。よく言われることですが、「慌てる」という漢字は「心が荒れる」という字を書きます。心が乱れ、穏やかでなくなるという意味です。だから人は慌てると、じっとしていられなくなるのです。立ち上がり、周りをきょろきょろし、動き回らざるを得なくなるのです。「惑わされてはいけない」ということと同じような意味だと思うのです
キリストに根を下ろす
この二つの言葉の意味を考えるときに、コロサイの信徒への手紙に書かれてある言葉が助けになるのではないかと思いました。2章7節に書かれてある言葉です。新約聖書の362頁の上の段にありますが、こう書いてあります。
「キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおりの信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい」と。
特に「キリストの内に根を下ろし」という言葉に目が留まります。「キリストに根を下ろす」で良いのですが、根を下ろすとはそこに留まるということです。そこから動かないのです。
こういう身近な例が分かり易いかもしれません。教会の狭い庭に「高砂百合」という百合の花が自生しています。白い花です。今はもう枯れて、種の入った房だけをつけていますが、その房が破れて種が飛び出しています。もうほとんどが種を落としましたが、その種は風で飛ばされて自由にどこかの地に落ちるのです。球根ですから、春になるまた同じところから目を出すのですが、どこか新しいところにも落ちた種が目を出して行きます。種は自由に飛び回るのですが、一度根を下ろしたら、そこに留まるのです。だから秋になると実りをもたらすのです。
もちろん私たちは植物とは異なり、健康である限り、自由にどこかに移動することができます。それは恵みであり、祝福です。でも時として、その自由さを持て余し、惑わされるようなことに直面した時に自由であるがゆえに、誰かに付いていこうとし、腰を浮かして立ち上がりたくなるのです。根をおろしていないからです
さらに「空しいだましごとの哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい」とも言っています。福音書のイエス様の言葉に繋がる言葉です。イエス様の時代だけではなく、今日も、これからもきっと空しいだまし事が私たちの日常を囲むに違いありません。
根を張る二つの意味
教会の暦は終わりを迎えようとしています。この世の終わりに思えるようなところを私たちは読んだのです。もちろん、それは悪戯に不安感を募らせ、恐怖感を煽るためではありません。ただ、聖書が書かれた時代の悲惨な出来事が決して過去のことではなく、私たちの時代にも何も変わらずに起こり続けていることを確認してきました。
でも今日の福音書読んだ一番の目的がそこにあるのではありません。こういう時代であるからこそ、私たちが立つべきところを確認したのです。惑わされず、慌てることのないように、私たちが根を下ろすべきところがどこなのかを、心に刻むことがもっとも重要なことなのです。キリストに根を下ろすのです。
「根を下ろす」とは、根を張ることで倒れないようにしっかりと立てるという意味がもちろんありますが、それだけではありません。根を下ろすことで、水と栄養を得てゆくのです。それがもう一つ大事なことです。キリストに根を下ろし、み言葉という命の水をいただき、心の糧という栄養をもいただくのです。キリストに留まり続けるならば、惑わされたとしても「付いて行くこと」はないのです。慌てることもない、今日のみ言葉をしっかりと受け取ってまいりましょう。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【聖霊降臨後第25主日(11月10日)】
「すべてを献げたやもめ」
(マルコ 12:38〜44)
神社で目にする光景
私たちがお寺や神社で目にする光景ですが、奉納した人の名前と金額が境内に張り出してあるということがあります。時には、石の柱に刻印されて、永遠にその名前が刻まれているということさえ目にします。それが大いに奉納する意欲に駆られてゆき、驚くほどの金額を差し出して行く人たちがいるわけです。
今日の献金箱の話はそういう話ではありませんでしたが、その前の38節から書かれてあったことはそれにつながることに思えるのです。律法学者をイエス様が非難されたという話です。彼らは「会堂では上席を、宴会では左座に座ることを望んでいる」というイエス様の言葉がありました。一番良い場所、最も目立つところに奉納者の名前と金額が刻まれる、それを望む人がいるのですから、日本もユダヤの国も変わらないわけです。
神殿の献金箱
41節からの「やもめの献金」の話には、そこが神殿の境内でのことだとは書いてありませんが、その前の35節に「イエスは神殿の境内で教えていたとき」とありますから、神殿の境内での話が今日の話でも続いているのです。
境内には13の献金箱が置いてあったと言われています。そんなにたくさんあったのかと驚きますが、神殿はとても大きなものでした。長方形の形で横が200メートル、縦には300メートルもある建物ですから、入り口もいくつもあったと言われているようですが、入口ごとに置かれていたのかもしれません。ただそれは推測にすぎません。献金箱がどこに置かれてあったのは分からないそうです。
ただ13個の献金箱はそれぞれに目的があったのですが、13番目の献金箱だけが「自由に献金を入れる箱」だったのではないかと言われるのです。私たちの教会でも「会堂等の建物を維持するための献金」がありますし、会員になると「毎月献げていただく維持献金」というものがあります。また先月の「こどもまつり」の日には、能登半島地震の被災者支援のための募金を呼びかけました。来週はルーテル学院・神学校を覚えて献金を献げます。これらはすべて「目的を持っている」と言えますから、神殿にあった12の献金箱に入れるのと同じようなものです。
でも、私たちの教会でも礼拝ごとに献金をしてもらいます。礼拝献金、席上献金と呼ぶこともありますが、これが今日の13番目の献金箱に近いものだと思います。
懐を痛めた献金
その献金箱の向かいにイエス様は座って、群衆がそこにお金を入れる様を見ておられたのです。自由な献金箱ですから、決められた額ではなく、それぞれが自由に献金を入れたのです。大勢の金持ちがたくさんの額を入れたのですが、ひとりの貧しいやもめは「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」と書いてありました。聖書の後ろのページにこの貨幣がどのくらいなのか書いてありますが、私たちがよく耳にする一デナリオンという貨幣があります。ブドウ園で働いた労働者の一日の賃金の例えがありますので、一デナリオンはブドウ園で働いた人の一日の労働賃金と言えるのです。その一デナリオンの128分の1がレプトンという貨幣だそうです。ですから、一デナリオンを128で割れば計算できますが、正確に日本円にするといくらだとは言えません。まあレプトン銅貨一枚は50円から100円くらいでしょう。ですから、金持ちの入れた額に比べると、やもめが入れた額は実にわずかな額であったのです。
しかしイエス様はこの貧しいやもめが誰よりもたくさん入れたのだと言われたのです。なぜなら、他の金持ちたちは多くの額を入れたとしても、それは有り余る中から入れたのだと言われたのです。もっと分かり易く言えば、金持ちたちが入れた献金は、彼らの懐を痛めるほどのことはなかったのです。
それに対し、やもめは「乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れた」のです。どうやって彼女はこの後生活をしたのだろうかと、そういうことが気になるような話なのですが、金持ちと違うことは、懐を痛めるという言葉も十分ではないほどに、すべてを献げたということでした。
主の山に、備えあり
それにしても、生活費全部を献げるのですから、あまりにも非現実的ではないかという気がします。どうやって今日、明日をしのぐのだろうかとどうしても気になるのです。
私たちが持つ疑問に応えるような出来事が、今日読んでいただいた列王記上17章に書いてありました。サレプタという町に住んでいた女性でしたから「サレプタのやもめ」と呼ばれています。このやもめには小さな息子がいたので、息子にも食べさせなければならない状況だったのです。今日のところをさらに続けて読みますと、このやもめは元々裕福な家に嫁いで、「家の女主人」と呼ばれるほどの経済的には恵まれた女性だったことがわかります。ところが夫を亡くしてしまい、息子と二人で今日の食事を済ませたら、明日は何もないという貧しい状況に陥っていたのです。
そこに預言者のエリヤがやって来て、水とパン一切れを持ってきて欲しいと頼むのです。読んだ通りですが、やもめは「今日の分を息子と食べれば、あとは死ぬばかりです」と断るのですが、エリヤは「パンを焼く小麦粉も油もなくなることはない」と言って譲らないのです。やもめは命じられた通りにしたところ、エリヤの言った通りのことが起こるのです。それどころか、次に大事な息子が病気で死んでしまうのですが、その息子をエリヤが生き返らせるという奇跡さえ起こってゆくのです。でもそれらはエリヤが起こした奇跡ではありません。主なる神様がすべての奇跡を起こしてくださったのです。
逃れる道の備えあり
この話と、すべてを献げたやもめとの共通していることは、神様が助けてくださるということです。旧約聖書には、他にも似たような出来事がしばしば出て来ます。特に有名なのが、アブラハムが残した言葉です。創世記22章に(14節)出てくるのですが、「主の山に、備えあり」という言葉です。アブラハムは、年老いてようやく授かった息子イサクの命を、神様に献げなければならないという過酷な命令を神様から受けるのです。山に二人で登り、燔祭として息子を屠ろうとしたそのぎりぎりのところで、神様から「もう良い」という声を聞くのです。するとそこには燔祭として献げる雄の羊が用意されていたのです。それをもってアブラハムは「主の山に、備えあり」という言葉を残したのです。
私たちにはアブラハムのような過酷さに耐えることは到底できませんし、その「主の山に、備えあり」という神様が用意してくださった燔祭こそがイエス様であったということを知っているのですから、そのような過酷なことを神様が要求されると考える必要はありません。でもこの言葉から覚えたいことは、私たちが歩む人生と言う「山道」は、主とともに歩む道であるならば、そこには必ず「備えがある」ということではないでしょうか。
この「備えあり」という言葉を、Tコリント書の10章(13節)でパウロは、
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遇わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」
と教えました。そういう逃れの道という「備えがある」。きっと、やもめも「主の山に、備えあり」という信仰を持ったに違いないし、また主なる神様も「逃れる道を備えてくださった」に違いないのです。私たちもこの信仰に学びたいのです。
戸惑いの中で
さて、ここまで今日のやもめとサレプタのやもめとの共通していることについて語りましたが、すべてが同じではありません。むしろ、決定的な違いがあるのではないか、そう思えるのです。サレプタのやもめはエリアに強いられたのです。なけなしの小麦粉と油を使ってしまえば、明日は何も食べる物がないのですから、エリアの要求を初めは拒みました。だから不承不承でした。それに対し、福音書のやもめは自分からレプトン銅貨二枚を入れたのです。自由献金だったのですから、献金箱を通り過ぎても問題はなかったのですが、自ら進んですべてを献げたのです。
もちろんこの行いを何の躊躇もなしに、何の戸惑いもなくなし得たのではなかったはずです。最後は自分の意志ですべてを献げたのですが、それは簡単なことではなかったのではないかと私は思うのです。最初に言いましたが、だから痛みを伴ったのです。しかし、それに優るものをやもめは得たに違いないのです。つまり、自分にとってやもめの行ったことは意味があったのです。やもめの人生に「主の山に、備えあり」という言葉の通り、きっと歩むべき道が備えられて行ったに違いないのです。
「投げ入れる」という言葉
さて、今日のやもめの生き方から私たちが学び、受け取るべきことはどんなことでしょうか。私は今日のみ言葉から、一つの言葉に注目したいと思いました。それは「入れる」という言葉です。何回も出て来ます。41節の言葉から始まるのですが、「イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」とありました。それから「大勢の金持ちがたくさん入れていた」と。この「入れる」という言葉が、繰り返されています。最後も「生活費を全部入れたからである」という言葉でした。「献金箱に入れる」ということから、皆さんはどういう光景を連想されるでしょうか。
神社には賽銭箱があって、参拝する人たちがお金を入れる光景を目にします。ですから、賽銭箱の中にお金をそっと入れる、こういう光景を連想するはずです。私もそう連想しました。ところが、この「入れる」という言葉を「投げ入れる」という言葉で訳している人がいました。確かにそれが良いのです。
ヨハネの福音書に「姦淫の女」の話があります。男たちが姦淫の女を連れて来て、「どうすればよいか」と試そうとしたという話です。その時に言われたイエス様の言葉が「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)という言葉でした。「石を投げなさい」とは、力を込めて投げなさいという意味です。使徒言行録で、ステファノという使徒が石を投げられて殉教する話がありますが、そこでも「人々が石を投げつけた」(7:59)という言葉が出てきます。これと同じ言葉です。ですから「石を置いた」とか「石をそっと置いた」というような意味ではありません。力を込めて「投げ入れる」という意味です。
やもめは銅貨二枚を力を込めて「投げ入れた」のです。もちろんそれは、石を投げるという怒りを込めたという意味ではありません。でも「力を振り絞って銅貨を神様に向かって投げ入れた」のではないかと私は思ったのです。葛藤の中で、戸惑いと迷いの中で、それを振り払うかのように神様に向かって自分のすべてを投げ入れた、いや投げ出したのです。
このように受け取るならば、今日の話は献金の話だけではないように思えるのです。キリスト者の人生とは、自分の生涯を神様に向かって、投げ出すことである。イエス様に向かって、自分の人生を投げ入れることである。それが信仰ではないかと思うのです。そういう私たちの人生に、イエス様が祝福をお与えくださらないはずがない、どんなときにも「主の山に、備えあり」と、逃れの道を備えてくださるに違いない、そう受け取りたいと思うのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【全聖徒主日(11月3日)】
「人はみな神の下に」
(ヨハネ 11:32〜44)
なぜ10月31日に
先週は宗教改革を覚える礼拝を行いましたが、一週間を経た今日は全聖徒主日礼拝を迎えました。天に召された方々を覚える礼拝です。毎年のことですが、今日も聖卓の前の机に、亡くなった方々の遺影をおいていただきました。
私たちは一週間前の宗教改革主日と全聖徒主日の礼拝とは直接には関係ないということを知っています。たまたま二つの異なる礼拝が続いたに過ぎないということです。
しかし単にそうは言えないようにも感じるのです。マルティン・ルターがある出来事を行ったことで宗教改革が始まることになりましたが、その日が10月31日でした。ご存じのように、ヴィッテンベルクという町にある教会の扉に、95か条なる提題を張り出したのが10月31日だったのです。95か条の公開質問状のようなものですが、それを本当に教会の扉に張り出したのかどうか、それは定かではないと言われているようですが、それはそれとして、なぜ10月31日に張り出したのか、それが今日の私たちには重要なのです。
翌日の11月1日は、人々がいつもに増して多く礼拝に集まることが予想されたからです。誰でも考えることですが、できるだけ多くの人に読んで欲しい、目に留めて欲しいと願うならば、人が多く集まる日を選ぶからです。
では11月1日は何の日だったのかと言いますと「諸聖人の日」だったのです。カトリックの教会の長年の伝統ですが、今もカトリックの教会は11月1日を「諸聖人の日」として守っています。「諸聖人」という字の「しょ」とは「諸々」という意味の「諸」です。「聖人」とは「聖なる人」と言う字です。お分かりとは思いますが、カトリックでは殉教者とか、特別の秀でた行いや奇跡的なことを行なった人たちを「聖人」と呼んで、とても大切にしています。例えばマザー・テレサは聖人に列せられました。ですから様々な聖人を覚える日だったのです。
守護聖人
問題は、どうしてその諸聖人の日にはいつもより多くの人たちが礼拝に集まったのかということです。聖人には特別な力があると考えられていたからです。もっとはっきりと言えば、人々には身近なところに聖人の存在があって、その聖人に願うことで、ご利益があるという信仰を人々が持っていたからです。
マルティン・ルターにとっての聖人がどんな意味を持っていたか、よく知られたエピソードがあります。ルターが「マルティン」と名付けられたのは、誕生日が(1483年11月10日)だったのですが、翌日に洗礼を受けたそうで、その日が「聖マルティンの日」だったからです。これは両親が「マルティン」と名付けたのですから、両親の信仰と言っても良いのですが、これからの息子の生涯の幸を願って、聖人の力にすがろうとしたからだと思います。
もうひとつが22歳の時のことです。ルターは元々は法律を大学で学んでいたのですが、友人と一緒に夏休みを終えて実家から大学に帰る道中で、真っ暗な森の中で落雷に会い、恐ろしさのあまり「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります」と叫んだと言われています。もう一人の友人はそんなことは言わなかったのですが、ルターは小心者だったでしょう。このエピソードで重要なことは、とっさに「聖アンナ様」と口から出たのですが、ルターにとって言わば身近な守り神、守護神だったのです。
でもこれはルターだけが特別だったのではありません。きっとみんなにも身近な守り神、守護神がいたのです。ですから、11月1日という日は、守り神と言える聖人を覚える特別な日ですから、人々はいつもの礼拝以上に教会に集まったのです。
なぜ聖人思想を止めたのか
さて、やや遠回りをしてしまいましたが、私たちは今日の礼拝を「諸聖人の日」とは言いません。「全聖徒主日」と言います。「諸聖人」が「全聖徒」という言い方に変わったのです。なぜなら、宗教改革者たちによって「聖人」という考え方が廃止されたからです。神様に特別に天の国に列せられる聖人はいないと考えたからです。そもそも聖書にそのような序列が天国であるなどということは書かかれていない、それが一番の理由だったのです。
これにつながる有名なところがあります。先日読んだところですが、弟子たちの二人がイエス様に「栄光をお受けになるとき、私どもをイエス様の左と右に坐らせてください」と願い出た話があります。天国の話です。その時イエス様は、「それは私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ」と言われました。教会と言えども、それは人間が決めるのが「聖人」ですから、それはイエス様の教えに反するのです。そういう意味ですべてのキリスト者が、この世の功績に従って天の国での序列があるのではなく、それぞれに等しく天に迎えられると考えたからです。とすれば、今日の「全聖徒主日」という礼拝をどう祝えば良いのかを考えなければなりません。
私たちが今日共に考えたいことは、人の死のことです。それが聖書の中に、殊にイエス様の教えの中に、どんなことが書かれているのか、それを改めて問わなければならないと思います。
でも、その問いの答えを求めて聖書をめくりながら、気付かされることがあります。人の死について、殊に人が死んだ後にどんなところに行くのか、ほとんど書かれていないということです。いや、私たちが真っ先に思い浮かべる「金持ちとラザロ」というたとえ話がルカによる福音書(16:19〜)にあります。ラザロは生前にまことに不幸な生涯を送ったので、天の国では祝宴に招かれたのに対して、ラザロのような貧しい人たちに何の施しもしなかった金持は地獄の日の中で苦しんだという話ですが、あれはたとえ話と言って良いと思います。例外的な話です。
眠りに就く
でも語っていることがあります。その一つが、人の死を「眠りに就く」と語っていることです。ただ、「眠りに就く」ということだけで、それ以上のことは語ろうとしないのです。やや言葉足らずな感じがしないでもありません。
今日の福音書はマリアの弟であったラザロという若者が死に、もう四日もたってからだが臭っていたのに、甦えらされたという話でした。今言いましたルカによる福音書の貧しいラザロとは関係ありません。この話は11章の冒頭から始まっているのですが、とても長い話ですから、今日は途中の32節から読んだのですが、11節にはイエス様が死んだラザロのことを「ラザロが眠っている」と言われるところがあります。実に不思議な言い方ですし、周囲の人々は「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と全く理解しないのです。
でも、この言葉はとても重要なことを私たちに教えているのです。私たちは、今日ここで覚えている天に召された方々も「眠っている方々である」と言わなければならないからです。私たちの目には見えずとも、天の国で眠りに就いた方々である。それが正しい言い方なのです。
そして目を覚まされる
眠っているからには、いつしか目を覚まされる時が来る。その時のことを、今日のヨハネの黙示録の言葉を用いるならば、「私はアルファであり、オメガである」(21:6)と語っていました。ギリシャ語は「アルファ」という言葉で始まり、「オメガ」で終わりますから、「初めであり、終わりである」という意味になるのです。神様は初めに天地を造り、そして終わりの時を設けられる方である、そういう意味です。つまり、この世にも終わりがある。その時が眠りから目を覚まされる時だと言うことができるのです。
そのことが、今日の福音書にも書いてありました。眠っていたラザロが再び目を覚ましたのです。これが二つ目に書いてあることです。それだけしか書いていない。あれほど「天の国」ということが聖書の中で語られながら、そこがどんなところか、お花畑なのか、どんな姿で人々がいるのか、どれくらいの人がいるのか、そんなことは何もかいていないのです。やや寂しい感じがしないでもありません。でもそれで十分なのです。神秘に満ちたことだからです。私たちがこの世の感覚で想像することをはるかに超えているからです。
だから私たちは、後は神様を信頼し、イエス様の言われたことを信じることで十分なのです。
キリスト者は目を覚まされる?
この「眠っている」という言葉から気になることがあります。そもそも人は死んだ後にはどんな人も眠るのか、それともある人たちだけが眠るのかという問いです。これは私たちの国のキリスト者にとっての最も大きな課題だと言って良いのです。なぜなら、私たちの多くが、自分はキリスト者であったとしても、親しき者がキリスト者とは限らないからです。いや、多くの場合が、自分だけがキリスト者であるということがむしろ普通だと思います。とすれば、自分だけが眠りについて、どんなに親しき者であっても、キリスト者でなければ眠りに就くことはないのかという、実に困難な問題があると思います。
宗教改革が起こった時代のことを今一度語るならば、ルターが95箇条の提題なるものを教会の扉に張り出した一番の理由は、当時のカトリックの教会が、いわゆる免罪符(正式には贖宥状と言いますが)なるものを民衆に売りつけているからでした。人々は自分自身が天国に入れるのかどうかも不安だったのですが、それだけでなく、亡くなった家族の者が天国に入れないで、地獄と天国の中間にある煉獄というところにいて、いわば執行猶予期間の中に立たされているような不安な思いを抱く人々がほとんどだったのです。だから、贖宥状(免罪符)を買えばたちどころに天国に入れると教会が言ったものですから、人々はそれを健気に購入したのです。
日本の教会の課題
ルターはそれに反対したことはご存じのとおりです。聖書のどこにも書いていないからです。でも日本に暮らす私たちにとっては、ルターの行ったことは実は不十分でした。
なぜかと言いますと、ルターの時代、そしてドイツの国ではほとんどの人が洗礼を受けていたからです。その意味では全員がキリスト者でした。ところが、私たちの国では、ほとんどがキリスト者ではないからです。
いや、私たちは通常はそのようなことを深刻に考えることはありませんし、その必要もないのかもしれません。でも今日私たちが「全聖徒主日」として礼拝をしていることは、その「全聖徒」という言葉は、キリスト者だけのことか、考えなければならないと私は思うのです。聖書はどう書いているか、私たちは問わなければなりません。
ひとつ間違いなく言えることは、私たちが誰が本当の「聖徒か」、だれが「天の国入るに相応しいのか」、それは教会と言えども、私たちが決めることではないということです。先ほど言いましたが、イエス様でさえ「それは私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ」と言われているからです。
さから私たちは今日、自分にとっての親しき者のために、そして自分自身のことのために祈るのです。神様に祈り、イエス様の慈悲深い執り成しにすがるしかないのです。いや、それで良いのです。後はイエス様の憐れみを信じれば良いのです。
アーメン
10月:宗教改革主日(10月27日)〜聖霊降臨後第20主日(10月6日)
【宗教改革主日(10月27日)】
「我は弱くとも」
(マルコ 9:14〜29)
宗教改革とは
今日は宗教改革を記念する礼拝です。宗教改革とは約500年ほど前に起こった歴史的な出来事であることは言うまでもありません。ドイツの国で、当時カトリックの修道士であったマルティン・ルターによって引き起こされた出来事です。ここまでは高校生の世界史の授業で学ぶことですから、忘れたかどうかはそれぞれに異なるにしても、誰もが一度は習ったことだと言えると思います。
でも、教会の中にいる者、特にルーテル教会に属する私たちにとっては、ルターという人物は、信仰に関することでの改革を行った人であるとか、教会で澱んでしまった悪しき習慣や教えというものを刷新した改革者という印象だと思います。
ルターの貢献
ところが、それは実に一面的な理解であることにある時気づかされました。例えば、私たちはルターが聖書をドイツ語に翻訳した人であったということを知っています。これまで私もそういうことを皆さんにお話ししてきました。丘の上にある城に10か月間身を隠したときに、わずか10週間で新約聖書を訳したということを私たちは知っています。それによってそれまで一部の聖職者や学者しか読めなかった聖書が、ドイツ語を読める人であれば誰でも読めるようになったと、いわば信仰的な意味での貢献をしたという印象があります。
でも、それは教会にいる者たちの印象でしかないということを私はある時に知りました。多くのドイツ人にとっては、標準的なドイツ語に統一した人という方がむしろ受け入れられているのです。ルターが聖書を訳して、それを印刷したものがドイツ中にあっと言う間に広まったのですが、それまではそれぞれの地域にいわば方言のドイツ語がたくさんあったのです。それまで標準語のようなドイツ語はなかったのです。ルターが話していたドイツ語もある地域の方言の一つでしかなったのですが、彼が訳したドイツ語が印刷されて全国に広まったものですから、それが標準語になったのです。そういう意味でルターの貢献は確かに大きかったのです。だから、信仰とか、教会ということとは関係ないところでルターが貢献した、それが教会にはほとんど行くことのない人たちにとってはルターから連想することらしいのです。
ルターの負の遺産
さらに言えば、ルターの働きが負の遺産として語り継がれていることさえあるのです。これも知っていても良いことだと思いますから、少し聖書から離れたお話ししようと思います。
私たちがしばらくドイツに滞在した時期は、東西に分けていた壁が壊れて、旧東の人たちが自由に西の方に流れ始めていた時期でした。私たちは旧西の地域に住んでいたのですが、旧東ドイツからやって来たという神学生を通して知ったことがありました。私もルーテル教会の牧師ですから、ルターという人物を好意的に受け止めていますし、ルターから学ぶことがたくさんあると思っていましたし、今でもそう思っていますが、でも旧東の共産主義のドイツの神学生たちはそうではなかったのです。
ここで詳しく話すことは短い時間ではできませんので、これ以上は話せませんが、ひとこと言えば、ルターは当時の貴族や領主という地域を治めていた支配者の側に付いた人物で、農民とか貧しい人々の側に立った人ではなかったと彼らは教えられていたのです。確かに、農民の側にルターが立たなかったために、結果として多くの農民が殺されてしまったという悲劇が起こったのですが、そういう負の歴史をルターに見る人たちもいるのです。
宗教改革の意味
さて、ここまで話したことは、いわば歴史の話です。私たちは教会の中だけで宗教改革というものを考えるのですが、でも歴史的な出来事は様々な見方ができるのであって、それはルターの宗教改革でも同じである、ということを言いたいのです。
でも、教会の中にいる私たちにとっても、ルーテル教会というマルティン・ルターの教えに立つ私たちであっても、宗教改革という出来事をどう考えればよいのか、実はそれぞれであり、まちまちであり、それゆえに実に「あいまい」ではないかと思うのです。
例えば「信仰によって義とされる」とか「行いではなく、信仰が大事なのだ」というルーテル教会の教えは知っていても、その「信仰」が自分にとってどんな意味があるのか、どういうものであるのか、それもあいまいではないかと私には思えるのです。
ですから、今日の福音書の教えから、ここは先月も少し取り上げたところですが、学んで行きたいと思うのです。
父親の不信
これは汚れた霊に取りつかれた子供と、子どもの癒しを求めてイエス様の弟子たちのところに連れてきた父親の話です。想像するだけで、本人と父親の苦悩がいかほどであったと思わせるような気の毒な親子だったのです。でも、福音書にしばしば出て来る病人の癒しの話の一つだということもできるのです。事実、この話は他の福音書にも書いてある出来事です。
父親が息子の癒しを願って弟子たちのところに連れてきたのですが、弟子たちの手ではどうすることもできなかったのです。弟子たちには手に負えないほどの深刻な状態だったのです。だから今度はイエス様のところに連れて来たのです。
そこで父親がイエス様に語った言葉が、この話の実に注目すべきことを引き起こしたのです。こう言ったのです。
「もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」(9:22)と。
「もしできますなら」という言葉は、私たちもよく用いる言葉にも聞こえます。正面切って「お助けください」と言うことを、遠慮がちに、前置きする言葉として「もしできますなら」というような言葉を使うことがあります。
でもイエス様はそういう意味には取られなかったのです。「もしできるなら」という言葉には「できないのではないか」という不信が込められていると受け取られたのです。弟子たちはできなかったのですから、イエス様もできないのではないかという不信感がどこかに父親に潜んでいることを、イエス様は見逃さなかったのです。
信じる者には何でもできる
ですから、イエス様は「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」(9:23)と言われたのです。
この言葉からやや混乱してしまいますが、「信じる者には何でもできる」というのは誰のことかと言いますと、これはイエス様のことだとまず押さえなければならないと思います。このことはこれまで繰り返し語っていることですが、イエス様は何かの奇跡をされるときに、ご自分の力でそれをされると言うよりも、神様の力をいただいてそれをされるということが時々書かれています。その一例が、5000人の食事の話です。5つのパンと二匹の魚だけで、5000人以上の人たちが食事をしたという代表的な奇跡があります。その時にイエス様は「パンと魚を取って、天を仰いで祝福した」(6:41)と書いてあります。ですからイエス様は神様のことを疑いの余地のないほどに信じていらしたのです。「信じる者には何でもできる」と、それはイエス様のことなのです。
方や、「信じます」と言いながら、しかしどこかで疑いが入り込んでしまう人がいたのです。それが今日の父親です。彼が言った言葉が実に重要なのです。なぜなら、福音書でもここにしかない言葉だからです。
「信じます。信仰のない私をお助けください」(9:24)
と言ったのです。ここだけ読むとよく分からないのです。「信じます」と言いながら、すぐに「信仰のない私をお助けください」と言うのですから、矛盾しています。「信じます」と言ったのですから、「信仰のない」という言い方はどうみてもおかしいのです。
イエス様の神様への信仰には「疑い」というものが入る余地がなかったのです。ところが、私たちの信仰は「信じます」と言いながら、その信仰には色々なところに「疑い」とか「不信」というものが入り込む余地がたくさんある信仰ではないかと私は思うのです。だから「信仰のない私を助けてください」としか言いようがないのです。ですから、今日の父親の信仰は、私たちの信仰の代表のようなものではないでしょうか。
イエスの信仰
マルティン・ルターが発見した「信仰」というのもこれと同じではなかったかと私は思います。ルターが唱えた「信仰のみ」という言葉があります。その他に「恵みのみ」「聖書のみ」という三つの「のみ」と言う言葉が知られています。神学校の礼拝堂にあるパイプオルガンにはこの三つの「のみ」が掲げてありますが、その最初の「のみ」が「信仰のみ」です。ルターが「信仰」を強調したからです。「行いではなく、信仰が大事だ」とか「人は信仰によって義とされる、神様によしとされるのだ」というような「信仰」の言葉が有名です。
でもその「信仰」というのは、私たちの「信仰」のこととどうしても受け取られがちでした。でもそれはルターの真意からずれたことになってしまったように思えるのです。そのことを今日の福音書は教えてくれているように感じるのです。
むしろ私たちの信仰は、疑いと不信というものが入り混じった不完全な「信仰」です。本当の「信仰」というものは、イエス様の信仰のことであって、それをイエス様は「信じる者には何でもできる」と言われたのです。
ではどうすればよいのか。私たちにはそういうイエス様の「信仰」というものは持ちえないのです。でも私たちは開き直るのでありません。今日の父親がそうであったように「信仰のない私をお助けください」と祈るしかないのです。いや、それでよいし、それが大事なことなのです。
私たちは弱くても
この意味で私たちは弱いのです。私たちの信仰は実に弱く、風前の灯にも似ているのです。でも、イエス様は私たちの弱さを責めることは決してなさらないのです。むしろ私たちが忘れてはいけないことは、私たちは弱くても、助けを求めることのできる信頼できる方がいるということだと思うのです。
今日の説教題を「我は弱くても」としましたが、この言葉から教会学校で時々歌う「こどもさんびか」の「主われを愛す」というさんびかを頭に浮かべた方もいらっしゃることでしょう。こういう歌詞です。
「主 われを愛す 主は強ければ われ弱くとも おそれはあらじ
わが主イエス わが主イエス…」
私は弱くても、私の信仰は乏しく、疑いに満ちていたとしても、何も恐れることはない。なぜなら、それでも主は私を愛してくださり、私たちの強い助け主である。それを忘れないことです。ここに立てば大丈夫である。これがルターの信仰であり、私たちがこれからも大切にすべき信仰だと思うのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【聖霊降臨後第22主日(10月20日)】
「仕えるために」
(マルコ 10:35〜45)
厚かましい願い
今日の福音書は、弟子たちの中の二人が――彼らは兄弟だったのですが――イエス様に厚かましい願いを申し出た話でした。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」という願いです。イエス様の右と左という席は二つしかないわけですから、特別に引き立てて欲しいと願い出たわけです。これを耳にした他の10人の弟子たちは、当然不快な思いだったことでしょう。ですから「腹を立て始めた」(41節)と書いてありました。
この話はマタイによる福音書にも書かれてありますが、そこでは二人の弟子が願い出るのではなく、母親が二人に替わって願い出たと書いてあります。今日と少し異なるのですが、しかし本筋では変わらないと思います。
二人の弟子の無理解さ
さて、皆さんはどんな印象を持たれたでしょうか。やはり二人の行動は、他の弟子たちを出し抜いて、抜けがけしたように思えないでしょうか。ですから、他の弟子たちが「腹を立てた」ということはよく理解できるのです。彼らも同じ思いをいだいていながら、彼らには踏み留まらせるものがあったのでしょう。
しかも、今日の話の前には、イエス様がご自身の十字架と復活の三回目の、すなわち最後の予告をされた直後の出来事ですから、ヤコブとヨハネの頓珍漢さが際立つように思えるのです。つまり、イエス様がこれからいよいよ十字架に向かって、ご自分のご生涯に終わりに向かって歩もうとされているときに、事実11章からはエルサレムの入城の出来事が始まるという鬼気迫っているときに、彼らはまったくそのことを気にもせずに、自分のことしか考えていないように思えるのです。
こちらの読み間違いか?
ところが、ある解説に目を通していましたら、「そうではない」と書いていることに目が留まりました。彼らはこれからイエス様に起こる過酷な運命に、すなわち十字架の死のことに気づき始めていたのではないか、そう言うのです。だからイエス様が「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねられたときに、「できます」とすぐに答えたのではないかと解説していたのです。
確かにそうかも知れません。イエス様の過酷な運命を自分たちも一緒に引き受けたいと、いや引き受けることができるという自信があったからこそ、その暁には、自分たち兄弟を特別な席を用意してくださいと、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」と願い出たとも言えるのかもしれません。
確かにそれで、私たちが最初に抱いた印象は払しょくされたのかもしれませんが、それですべて彼らの名誉が保たれたのではありません。それは今日読んでいただいた旧約聖書と使徒書から気づかされることです。
イザヤ書53章
旧約聖書はイザヤ書53章7節からでした。イザヤ書は旧約聖書の預言書の中でもっとも重要と言える書です。例えば、後一か月半すると教会の暦は待降節、アドベントに入ります。早いもので、もうしばらくするとクリスマスの準備が始まりますが、その時に読むことになる旧約聖書はイザヤ書が圧倒的に多いのです。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」、
この行をもうすぐ今年も耳にしますが、これはイザヤ書(7,8章)の言葉です。イエス様が宣教を始められた時に
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」(マタイ4:16)
という言葉が出てきますが、これもイザヤ書の言葉(9:1)です。
それと同じように、イエス様の十字架についてもイザヤ書はとても有名な言葉で預言しています。中でも特に有名なのが53章です。「イザヤ書53章」と聞くだけで、もうそれは十字架のことと言って良いのです。それを短く「苦難の僕」と表現することがあります。今日は53章の7節から12節だけを読んでいただきましたが、ここに「苦難の僕」の姿が描かれていました。
今は十字架を覚える季節ではありませんので、この箇所に深入りすることはできませんが、しかしここに、今日のイエス様の言葉に繋がることが書かれていたことを、私たちは確認しなければなりません。
苦難の僕
二人の弟子だけでなく、すべての弟子たちに言われた言葉です。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:43〜44)
と言われたのです。弟子の二人も他の弟子たちも人より偉くなりたいと、頭になりたいと思っていたのです。ですから弟子たちみんなの願いが、イエス様の右と左という二つしかない特別な席に座ることでした。ですから他の人よりも上になりたい、皆より先に歩むことを彼らは目指していたのです。
でもイエス様が言われたことは「あなたがたの間では、そうではない」(43節)ということでした。むしろ下に、むしろ後ろにいるのです。それが「僕」という意味なのです。しかもイザヤ書が記しているように、「僕」は「苦難の僕」の姿をしているし、「苦難を担う僕」の姿なのです。
自分の弱さを負った方
このことを、今日朗読していただいたもう一つの使徒書、ヘブライ人への手紙は、イザヤ書と同じように、キリストの苦しみということを記しながら、そして同時にこの手紙の独特の言い方をしていました。キリストのことを「大祭司」という言い方をしますから、それ自体が他にない言い方ですが、もっと重要なことは、苦難の僕としての、その「苦難」の意味を独特な表現をしていることです。それが4章と5章に書かれていますが、今日は5章の方を読んでいただきました。5章の2節にこういう言葉がありました。
「大祭司は、自分も弱さを身に負っているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」と。
かなり微妙な言い方です。特に「無知な迷っている人々を思いやることができるのです」という言葉は、聖書と言えどもやや耳障りな響きがあります。殊にそれが、今でいう「上から目線」という感じで、イエス様が自分を高いところに置いて、自分だけは安全なところに置いて、あるいは自分は「無知とか、迷い」ということとは全く関係ないところから、「大祭司であるキリストは、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」と言われたとします。それでは、イエス様のおもいやりというものは、心の奥底には届かないのではないでしょうか。ですからこの手紙は「大祭司であるキリストは、自分も弱さを身に負っているので」と言うのです。
涙を流すイエス?
さらに7節でも、
「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」
と言っています。この7節は、私たちが知っているゲッセマネでの祈りのことを書いています。十字架には金曜日の午前9時に付けられたのですが、その前夜、木曜日の夜中にイエス様は夜を徹して祈られたのがゲッセマネの祈りです。その時のイエス様のことを「深く嘆き、涙を流しながら、自分の死を救うことのできる方に、祈りと願いを献げられた」と言うのです。
でもこれは本当は正しくありません。ゲッセマネの祈りの際に「涙を流しながら祈りと願いを献げた」とはどこにも書いてありません。でもヘブライ人への手紙はそう書くのです。イエス様ご自身が「自分も弱さを身に負っていた」ということをどうしても、私たちに伝えたかったからです。
イエス様が「無知」とはさすがに思えませんが、しかし「迷っている姿」を十字架の前夜に隠さなかった方でした。上辺だけ、迷ったふりをした、ということではありません。だから「迷っている人々を思いやることができるのです」とこの手紙は言いたいのです。
過酷な勧め
さて、今日のみ言葉から、私たちは何を受け取ることができるのでしょうか。私たちはイエス様の言葉、すなわち「皆に仕える者となり、すべての人の僕となりなさい」という言葉を聞くと、それはイエス様がされたことで、私たちにはどうも荷が重いということになってしまいます。イザヤ書の「苦難の僕」ということにしても、それはイエス様を預言したのであって、私たちのことではないと割り切ってしまうのです。
でも、ヘブライ人への手紙はから学ぶことはそうではありませんでした。イエス様は私たちと違う方であったというよりも、私たちと同じように「自分の弱さを負った方であった」と言い、また「涙を流しながら、神様に祈りと願いを献げられた方であった」と、私たちと同じ人間として、皆に仕え、すべての人の僕となられたことを伝えようとしたのです。
ですから、今日のイエス様の言葉を聞いて「私たちも同じようにできます」と力強く答えることはできないとしても、誰か一人に仕え、ある一人の人の僕となることはできるのではないかと思うのです。たとえ無力であっても、たとえ小さき者であっても、いや、そういう者であるからこそ、無力な誰かに仕え、小さきある人の僕となることを行なって行きたいと思うのです。
今日から始まる一週間が、そのような歩みとなりますようにとお祈り致します。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【聖霊降臨後第21主日(10月13日)】
「天に宝を積む」
(マルコ 10:17〜31)
過酷な勧め
今日の福音書は「金持ちの男」の話です。とても有名な話の一つでしたが、どちらかと言いますと、「金持ちの青年」というイメージが強いと思います。でもそれはマタイによる福音書の言葉です。もう一つのルカによる福音書では「金持ちの議員」となっています。この題目だけでも異なったイメージを抱きますが、ただ「金持ちの男性」であったということには変わりがありません。
さて、まず私たちが抱く印象は、金持の男が気の毒に思えることではないでしょうか。言うところの、品行方正、真面目な模範的な男でした。十戒の項目をことごとく少年のころから忠実に守ってきたのです。ですから、むしろイエス様から褒められるでき人ではなかったと思えるのです。しかしイエス様はほめるどころか、最も厳しいことを行なうように命じるのです。「持っているものを売り払い、貧しい人々に与えなさい」と。金持ちの男だったわけですから、それを売り払うということがどれほど困難なことであるか、言うまでもありません。
ですから、男が「顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」ということはむしろ当然であり、気の毒としか言いようありません。ここにいる私たちの多くが今日の男のような金持ちではないとしても、それでも「財産を売り払い、貧しい人々に与える」ということはできないはずです。一部を募金に協力して、そして困った人たちを支援するということはあっても、「財産を売り払う」ということではありません。ですから、いかに過酷で、厳しい勧めであったかが分かります。
なせ「慈しみ」?
ところが驚くべき言葉がありました。21節です。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」という言葉です。「厳しく言われた」なら分かるのですが、慈しんで言われたというのです。でも、この言葉が重要であり、今日の鍵ではないかと思うのです。
顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った男の姿を弟子たちは見ながら、きっと大変な驚きを覚えたに違いないのです。そこにイエス様は弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」と念を押すように言われたのです。さらに続けて「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ともっと驚くべきことを言われました。だから「それでは、誰が救われることができるだろうか」と弟子たちは互いに言い合ったことは当然のことでした。
ここまで、神の国に入ることの難しさ、過酷さ、厳しさだけが強調されているようにしか思えません。どこにも「慈しみ」というものがないです。だから厳しさだけ私たちの目が向かうのです。
神に委ねれば
ところが、イエス様の次の言葉でひっくり返ります。厳しさが慈しみに変わるのです。「人にはできなが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われたからです。私たちは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉から、金持ちが神の国に入ることはもう不可能なんだと読みます。それどころか、らくだが針の穴を通れないことは当然のことですが、そもそも針の穴は蟻でさえも通れないのではないでしょうか。らくだの大きさに例えられるほどの金持ちではないとしても、ここにいる私たちも多分小さな動物ほどには例えられることでしょう。ですから、私たちも針の穴は通れないということではないかと私は思います。だから、本来誰も神の国に入る穴を自分では通れないのです。
だからそれは人にはできない。でも神にはできるのです。神は何でもできるからだと言われたのです。私はこの言葉を、人にはできないが、神様にはできるということを信じて、できる神に委ねれば良いのだと読みたいのです。それが神の慈しみであり、イエス様の慈しみのであろうと言いたいのです。
ルターの十戒の教え
ただ、イエス様の慈しみとは、私たちが信じて、委ねることで終わらないのです。それは天に宝を積むということです。ではどんなことでしょうか。
金持ちの男にイエス様が言われたことを思い起こしましょう。モーセの十戒にある一つひとつの戒めの言葉です。まず「殺すな」という戒めでした。これを男は少年のころから守って来たのです。嘘ではありません。人を殺す、盗む、偽証するということなど一度もなかったに違いないのです。でもそれは、「悪いことはしなかった」ということだけだったのではないでしょうか。戒めは守った、悪いことはしなかったということではあって、言い方を変えれば「良いこと」はしなかったのです。自分のためのことは少年のころから守ってはいても、隣人のために何か良いことをすることはなかったのです。
そこで私は、この十戒の「殺すな」という戒めについて、マルティン・ルターが『小教理問答書』で教えていることを思い出したのです。皆さんもよくご存じのことかもしれません。
「これはどんな意味ですか」
答え、「私たちは、隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりしないで、むしろ、あらゆる困難の場合に、その人を助け、また励ますのです」
金持ちの男は、隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりすることはなかったのです。でも、困難にある人を助け、励ますことがあったのであろうかと考えるのです。
「盗むな」という戒めはどんな意味だろうか。
答え、「私たちは、隣人の金や品物を奪ったり、また不正な品物や取引でもうけたりしないで、むしろ隣人の財産生活を助け、よくし、まもるのです」
金持ちの男は隣人の金や品物を盗むことはなかったのです。でも、隣人の生活を助けることがあったのであろうかと思うのです。
「天に宝を積む」とは
ルターの十戒の教えの優れたところはお分かりだろうと思います。「殺すな」とは「殺さなかった」で済まないのです。金持ちの男は、「殺していません」ということでもう守って来たと胸をはったのです。つまり十戒の「いましめ」を守ればよいと考えたのです。もちろんそれだけでも大したものでしょう。でもそれは「天に宝を積む」ことではなかったのです。
そこで私はこう思うのです。金持ちの男は、自分の持っているものの一部を売り払うことはできたのではないかと。それだけでは天に積んだ宝はわずかなものかもしれませんが、でもそれだけでも十分ではなかったかと思うのです。イエス様の慈しみに満ちた眼差しを信じて、自分にできることを精一杯行って、神の国のことは神様に委ねれば良かったのです。
それぞれに向けられる言葉
これは私たちの場合も同じではないでしょうか。私たちの多くが今日の男ほどの金持ちではないでしょう。でも同じように今日のイエス様の言葉がきっと向けられるのです。
いや、それとは違う言葉かもしれません。なぜなら、今日の話は終わりに突然、家族のことが語られているからです。「福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害を受けるが、来るべき世では永遠の命を受ける」(29〜30節)と言われました。金持ちの男の話と、家の中に関することとに何の関係があるのかと首を捻るのです。でも、「家族を捨てた者は」という「捨てる」という言葉は、金持ちの男の話と同じだと思います。「持っている物を売り払う」ということは「捨てる」ということと同じだからです。
そしてもっと重要な共通したものがあります。誰にとってもそうですが、お金や財産は極めて大事なものです。金持ちの男にとっても同じだったはずです。家族や家というものも極めて大事なものです。「極めて大事なもの」ということでは二つは共通していると思います。
それだけではありません。極めて大事なものであるからこそ、それが影を落とすことが起こるのです。金持ちの男にとっては、たくさんの金があるゆえに、それが拠り所となり、それを貧しい人のためにいくらかであっても手放すということができなかったのです。それと同じように、家族や家のことにあまりにも思いが向けられることが、影を落とすことが起こり得るのです。
家族愛の影
もちろん、家とか家族と言っても、それぞれの家のことをひとまとめにはできないことは言うまでもありません。今日のところには、どうして家や家族を「捨てる」ということが、神様からの祝福に与かれるのか書いてありません。でも、今日読んだところからすぐにある出来事が起こります。ヤコブとヨハネという二人の弟子が、他の弟子たちを出し抜くかのようにして、イエス様に、自分たち兄弟を「あなたの右と左に坐らせてください」と頼み込むということが起こります。神の国でそうして欲しいという願いではないかと思われることでした。兄弟愛が高じて、他の弟子たちのことが見えなくなってしまったのです。この話はもう一つの福音書では、母親が二人の息子のことを願い出たと書いてあります。母親の息子たちに対する家族愛です。どちらにしても、家族愛が影を落とした例なのです。このことを私たちは笑えるでしょうか。
このように今日のところには二つの例が語られていたに過ぎません。それぞれに相応しい例がきっとあるのです。
自分のために、自分の家族のために私たちは自ずと思いを込め、力を注いで行くことでしょう。もちろんそれも大切なことです。しかし今日イエス様はそれだけでは「あなたには欠けているものが一つある」と言われるのです。隣人にとって助けとなり、益となることを、そして自分のできることを精一杯行うということです。それが天に宝を積むことになるのです。今日から始まる一週間をそのように過ごしたいと思うのです。 アーメン
〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜
【聖霊降臨後第20主日(10月6日)】
「神の思いはどこに」
(マルコ 10:2〜12)
ファリサイ派の目論見
今日はファリサイ派の人々がイエス様を試そうとした出来事でした。夫が妻を離縁することが許されるのかどうかを尋ねたのです。本当に答えを求めているのではなく、模範解答をもう知っているのです。もし答えられなければやり込めてやろうと、隙を狙っていただけでした。
彼らが尋ねたことは「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのか」という問題でした。今言いましたように、彼らは答えを知っていたのですから、「モーセはあなたがたに何と命じたか」と逆にイエス様が問い返されたときに、すぐに答えることができたのです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と。
彼らは、イエス様が答えることができないことを狙ったのですから、彼ら自身が自分たちが質問したことを答えてしまったことで、ここでもう彼らの目論見は失敗したのです。
くだかれた彼らの目論見
ところが話が彼らの予想を超えたことに広がって行くのです。イエス様の答えはファリサイ派の人々の答えと同じだったのです。いや、同じだったと言うよりも、彼らが「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えたことをまず認めたのです。旧約聖書の申命記24章にそういうことが書いているようですから、イエス様も確かに「そうだ」とまず認めたのです。
しかし神様の本当の思い、本心というものは違うんだと言われました。「あなたがたの心がかたくななので」、あなたたちに神様が配慮したのであって、神様の本心は違うんだと言われたのです。分かり易く言えば、そうなのです。ここが今日の重要なポイントになりますが、やや不可解な答えにも思えるのです。彼らが答えたことに「そうだ」と、「確かにそうモーセは語っている」と認めながら、でも実は神様の本心は違うんだと、どれが本当の答えなのか、やや分かりにくいような感じが私にはするのです。
神の思い
そこで神様の本当の思い、本心というものを、創世記の天地創造の由来から語って聞かせようとされました。今日読んでいただいた創世記にあった言葉でしたが、7〜8節にそこの言葉がありました。「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」という言葉です。ただ、最後の9節の「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉は、創世記の言葉にはありません。だからイエス様の言葉です。創世記には書いてないけれども、神様の本当の思い、本心はここにあるということをイエス様は言いたかったのです。
イエス様を試そうとしたファリサイ派が、それからどうしたのか書いてありません。彼らの当初の目論見が失敗に終わったことは間違いないでしょう。すごすごと退散したのでしょう。そこで今日の話は一区切りするのですが、でも弟子たちはイエス様の教えをよく理解できず、まだもやもやとして引きずっていたでしょう。ですから10節に「家に戻ってから、弟子たちは再びそのことについて尋ねた」と書いてあります。するとイエス様がこう言われたのです。
「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男と結婚する者も、これと同じだ」と。
もしそうならば、妻と離縁して、他の女と結婚しなければ姦淫の罪にはならないことになりますから、離婚しても問題にならないことにならないでしょうか。妻の場合も同じです。ですから、絶対に離婚してはいけないのか、それとも条件を満たせば許されるのか、どちらが本意なのか曖昧な感じがするのです。
それだけではありません。今日の話はマタイによる福音書の19章にもありますが、そこには「みだらな行いのゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯すことなる」(19:9)と書いてあります。みだらな行いが理由でないのに妻を離縁し、他の女と結婚してはいけないということですが、みだらな行いがあった場合には離縁しても、他の女と結婚しても問題にならないことになります。だから、今日読んだ福音書と異なることを書いているのですから、私たちは幻惑させられます。
異なる教派ごとの教え
ご存じの方も多いと思いますが、教会によって離婚を認めるかどうかの判断が違います。それは今日のここをどう受け取るかの違いにもつながるように思えるのです。私たちのルーテル教会を初め、多くのプロテスタント教会は「離婚は絶対にしてはいけない」という見解は取っていません。結婚式で司式をする牧師は、9節の「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉を大切にし、この言葉を結婚の誓約を交わした二人と参列者に向って必ず語りますが、でもそれが理想通りに行かないことがあることを容認し、配慮するのです。
でもカトリック教会の場合にはそれは認めないという立場です。9節の言葉を文字通り、頑固に受け取るわけです。だから教会もイエス様の曖昧な言い方をそれぞれに解釈していると言えるのです。
結婚も「それぞれ」
離縁についての話しはここで終わりますが、先ほど言いましたもうひとつマタイによる福音書は、もう少し話が続きます。これが実に興味深いのです。弟子がこう言うのです。「人が妻と別れてはならない理由がそのようなものなら、結婚しない方がましです」(19:10)と。そんなに窮屈なら、最初から結婚しない方がましだと。
皆さん、どうでしょう? 随分と飾り気のない、率直な声にも聞こえてくるようにも思います。逆に妻からすれば、「夫婦の間柄がそんなものなら、夫を迎えない方がましです」という声があるはずです。こうなると、離縁の話ではなく、結婚そのものが問題となっています。さらに続けて、イエス様は結婚そのものについて踏み込まれるのです。結婚する人がいれば、様々な理由で結婚しない人もいると言うのです。「独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もいる」(19:12)と。中には天の国の働きのために、自ら進んで独身者になった者もいると言われるのです。ご存じのように、カトリック教会の司祭は原則結婚できませんし、使徒でもペトロたちは妻帯者でしたが、パウロは生涯独身でした。
だから結婚観も「それぞれ」なのです。要するに、結婚するかしないかも「それぞれ」である。現代の私たちからすれば当たり前のことですが、そんなことまでイエス様が弟子たちに語っていることはある意味、興味深いことです。
神の二つの思い
さて、今日の話は「夫が妻を離縁することは許されているか」ということを、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして尋ねたことから始まりました。マタイによる福音書の助けを借りるなら、離縁ということが起こる以前に、結婚そのものが、ある人は色々な理由があって結婚しようという思いがあってもしない人がいるし、またある人は結婚というものにそれほどの重きを感じない人もいるし、また中には宣教に勤しむために敢えて結婚を断念する人もいると、つまりそれぞれが違う結婚観を持っているし、それでいいのだとイエス様が語られていることを確認しました。
そして今日の福音書では、イエス様は、離縁は神様の本心ではないということの理由として、「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(10:7〜8)という創世記の言葉を挙げられました。だから結婚する人は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(10:9)という言葉を大切にしなければならないのです。それが神様の思いであり、本心であるということを私たちは学ぶのです。
しかしそれだけではありませんでした。神様の思いと本心というものは、それだけでなく、もう一つあったのです。人の不完全さをよくご存じで、自分たちの思いを超えたことが結婚生活には起こり得るし、計らずも離縁せざるをえないことに陥ることにも配慮されること、これも神様の思いだったのです。私たちはこの神様の二つの思いを受け取りたいのです。
キリストと私は一体である
先ほど、離縁の問題については、福音書でも一致していないところがあり、教会においてもそれぞれの理解があるということを語りました。結婚そのものの理解も同じで、決して画一的に語ることはしていません。今日にあってはなおさらそうであると私は思うのです。
しかし最後に、コリントの信徒の手紙に書かれていることに注目したいのです。第一の手紙ですが、7章には「結婚ついて」長々と書かれてあります。私たちが今日学んだことも含まれています。結婚について、離縁について、守るべき基本的な考え方が書かれていますが、でもやはり今日のイエス様の教えにあったように、決して画一的なことではなく、それぞれが最後は判断することを勧めています。
そして、その前の6章には、今日の福音書に出てきた「二人は一体となる」(6:16)という言葉が出て来きます。ここでも、今日の創世記2章の言葉を意識しているのです。しかしそれは夫婦や男女の一体のことではないのです。ここが重要なことです。そこで言っていることは「あなたがたは主と一つである」とか「主と一つの霊になる」ということなのです。「あなたがたはキリストと一つである」ということです。だから「二人は一体となる」という今日の言葉を用いながら、その「二人」とは「あなたとキリスト」のことなのです。いや、「私とキリスト」のことを言っているわけです。「私とキリストはひとつである」「キリストと私は一体である」、そういう意味で言うのです。
結婚や離縁を語る前に
このことは、それぞれが自由に考えればよいということにはならないのです。少なくとも、ここにいる私たちは誰もが「私はキリストと一つである」「キリストと私は一体である」ということをしっかりと受け止めなければならないのです。このことは「それぞれが自由に考えればよい」ということにはならないのです。このことは結婚観にしても、離縁の考え方も「それぞれ」ということと同じにはならないのです。
私たちは誰もがイエス様の助けとお守りの中にある。そのお導きと祝福の中にあるのです。それと同様に、私たちの中にも主キリストが共にいてくださるのです。これをキリストと私は一体であり、一つであると言うのです。このことを結婚や離縁のことを語る前に、しっかりと受け止めてゆきたいのです。 アーメン