牧師室からのエッセイです。
 この世の様々なできごと、季節のいとなみ、日々の歩み、聖書のことなど、どこから眺めるかで見えて来るものは異なるものです。牧師室という狭い窓から見えることですから、きっと見えるものはごく限られたものであり、巷からすればむしろ視野の狭いものでしかないでしょう。
  ただ、自分の日々の生活を振り返り、また人生について考えるときに、少しでも皆さんのお役に立てればと願っています。

 

 ○牧師紹介:立山忠浩

 1954年生まれ。社会人生活(橋梁設計・施工会社勤務)の2年間経て、 牧師の道へ方向転換し、三鷹の神学校(ルーテル神学校)の門を叩く。

 1985年に牧師になり、宇土・松橋教会、三鷹教会、東京池袋教会を経て、2015年から都南教会に着任。
 趣味はスポーツ鑑賞。山登りなど自然探索も毎年目標としながらも、なかなか叶わず、とりあえず今は近隣の散歩を堪能中。

2020年

 

十字架の沈黙の声を聞く

 

 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
         (マタイによる福音書27:46)

 

  アウシュヴィッツの出来事
 アウシュヴィッツの体験者で、ノーベル文学賞受賞者の作家にエリ・ヴィーゼルがいます。小説『夜』が特に有名で、その中でも衝撃的なくだりが以下です―少し長いですが―。
「ある日、私たちは作業から戻ったときに、三羽の黒い鳥のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。…縛りあげられた三人の死刑囚――そして彼らのなかに、あの幼いピーペル(13歳の子供)、悲しい目をした天使。
 三人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。三人の首は同時に絞索の輪のなかに入れられた。『自由万歳!』と、二人の大人は叫んだ。子どもはというと、黙っていた。『神さまはどこだ、どこにおられるのだ。』私のうしろでだれかがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。
 二人の大人はもう生きてはいなかった。…しかし三番目の綱はじっとしてはいなかった。子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである…。三十分あまりというもの、彼は私たちの目もとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうから見つめねばならなかった。
 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』そして私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
 『どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊るされておられる…。』」

 

  十字架の中からの声
 ヴィーゼルはユダヤ人でしたから、キリスト教の信仰者ではありません。しかし、想像するだけでもおぞましい彼の壮絶な体験の出来事に、私たちは十字架上のイエス・キリストを連想するのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というあの叫びの声です。
 死刑囚の子供がこのように叫んだのでありませんが、その代わりにある男が「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」と小声で尋ねたのです。これは「神よ、なぜあの少年を見捨てるのか」という叫びと同じなのです。
 ゴルゴダの丘では、この絶望の叫びしか聞こえなかった。しかし私たちには、どこかに神の沈黙の声が響いていたのではないかと信じるのです。その沈黙の声をヴィーゼルは心の中で聞いたのです。それと同じように、十字架につけられたイエスにも、「あなたと共にここにいる」という父なる神の声が聞こえたに違いないのです。

 

  共に苦しみ、復活させる神
 マルティン・ルターはある書で「人(人としてのイエス)が苦しむ事がらを神もまた苦しむのである」と言いました。十字架の苦しみを神も共に苦しんでいるのだ、と教えるのです。
 聖書の中の沈黙の声を、いたずらに想像たくましくして聞くことは戒めなければなりませんが、しかしイエスの十字架の際の絶望の声だけを聞いて終わってはいけないのです。それでは三日後の復活、すなわち死への勝利が見えて来ないからです。
 イエス・キリストの復活のことを「復活した」とか「甦った」と私たちは普通に言います。間違いではありませんが、パウロの手紙は「復活させられた」とか「甦らされた」という表現に拘っていることはとても重要なことです。イエスがご自分で復活したり、甦ったのではなく、神がイエスを復活させてくださったことだと理解したからです。あの十字架の苦悩の最中にも、たとえ神の声は聞こえずとも、見捨てることなく、神は共に苦しんでいるからこそ、三日目に復活の恵みを注いでくださったのです。

 

  神の沈黙の声を聞く
 このことは私たちにも当然及ぶことなのです。神はいつも沈黙しているようにしかみえない。アウシュヴィッツを語るまでもなく、私たちが助けを求めたとしても神が語りかけることはまずないはずです。祈りと願いが大きければ大きいほど、神の声に耳を澄ますのですが、しかし沈黙だけが支配するのです。
 でも、それは神の沈黙の声が私たちの肉の耳には聞こえないだけに過ぎないのです。信仰の耳を澄ますならば、「いつもそこにいる。共に喜び、共に悲しみ、共に苦しんでいる」という声が聞こえて来るに違いないのです。
 この沈黙の声を聞く者は幸いであり、確かな勝利が用意されていることを知るのです。イエスを復活させられた神が、私たちが苦悩にたたずんでいるままに放置されることはないということを。
                           (2020年3月1日)

 

2019年

 

闇を照らすまことの光

 

  フィンランドの冬
 北欧のフィンランドに一時期滞在したことのある邦人牧師から耳にしたことがありました。「フィンランドというと『冬はとても寒いから大変でしょう』と、皆さんに厳しい寒さを同情されます。でも、そうではありません。それ以上に身に染みて辛いのは暗さです。真冬の太陽はなかなか昇らず、昇ったとしても光は弱々しく、またすぐに沈んでしまうのです」と。真冬の暗さは日本人には本当に堪えると言うのです。それは慣れっこになっているはずのフィンランド人にとっても同じだと聞きました。
 フィンランドから私たちがすぐに連想することは楽しいサンタクロースの話題ですが、彼らにとってクリスマスとは、ようやく長く暗い冬が峠を越え、この日から日増しに太陽の輝きが力強くなって行く待望の日を迎えたことを意味すると知りました。

 

  クリスマスの起源
この話から連想することがあります。周知のように、クリスマスの日については聖書は何も書いていません。これがイースターとの違いです。聖書とは関係なく、後代の教会が4世紀ごろに12月25日に定めたのです。古代ローマにあった宗教(ミトラ教)の祭りを取り入れたというのが有力な説のようです。ミトラ教では、この日は「不滅の太陽が生れる日」とされ、太陽神であるミトラを祝う祭りであったと言われています。キリスト教が異教徒の祭りを取り入れたのです。これが今のクリスマスの始まりです。文明の利器である電気をまだ持たない古代人にとって、夜は闇の支配する恐ろしい時間帯であり、日照時間の短くなる冬はなおさらそうだったに違いありません。
 この意味では日本の国は恵まれているのかもしれません。春夏秋冬という季節の移り変わりには敏感ですが、冬の暗さに対してはそれほど過敏ではないと思います。それを証拠に、欧米に導入されている夏時間、冬時間という季節ごとの時間調整に、私たちはほとんで無関心です。では私たちには、12月25日がクリスマスと定められた由来はまったく関係ないことになるのでしょうか。まして、夜中でも電気にスイッチを入れれば明かりがつき、24時間営業のコンビニエンスストアがあるように、暗闇が支配する暗黒の時間はない今日あって、「暗闇」という言葉そのものが力を持たないのでしょうか。

 

  「闇」が覆う世界
 そうではないと思います。確かに一年中、昼夜も関係ないほどに「暗さ」からは解放されています。しかしその「暗さ」とは違うものに覆われていないでしょうか。それを「闇」と言うことができるかもしれません。
 だからクリスマスに読まれるヨハネの福音書は「暗闇」という言葉を用いたのです。「光は暗闇の中で輝いている」と言ったのです。「暗い闇」とは、太陽や照明の暗さのことではありません。文明の利器のお陰で「暗さ」は薄れたとしても「闇」はなくならないのです。日替わりメニューのように目まぐるしく私たちの耳や目に届く情報は、辛く悲しいものばかりです。いや、本当は恵み豊かな知らせがあるのに、私たちの目や耳はどうしても闇に彩られたこと方に向かうのです。
 人の命が傷つけられ、奪われるような痛ましい事件が起こるたびに思うことは、被害者の痛みや深い悲しみは当然のことですが、多くの加害者が自分自身も何らかの心の傷を負っているということです。暴力の被害者でもあることは珍しいことではない。このようなことが報道されるたびに、何とも言えない気分に陥るのは私だけではないでしょう。加害者の「心の闇」の存在が、「この世の闇」や「悪魔的な闇」としか言いようのないものを感じるのです。

 

  光と福の音あり
 「光は暗闇の中に輝いている」、これがクリスマスの出来事です。私たちの時代だけでなく、イエスの時代も含めたいつの時代も「闇」が世を覆っていたのです。
 でも私は思うのです。「闇」という字はなぜ「門」に「音」と書くのだろうかと。その語源は定かではないようですが、私には「音」が閉ざされることが「闇」の意味ではないかと思えるのです(「門」は囲む、閉ざすという意味)。そしてその「音」とは「福音」のことではないかと。キリストの光のことだと言ってもいい。キリストという光と福の音、これが閉ざされるときに本当の意味での「闇」の支配が訪れるのです。


 逆に言えば、「暗闇」が私たちを覆ったとしても、真の光と福音とを閉ざさない限り、闇が支配することはなく、そこには確かな希望と喜びが見出せるのです。これこそがかけがえのない大切なものだと思うのです。

 

 (2019年12月29日)
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聖書の「カリスマ」

 

 「カリスマ」の意味
 「カリスマ」という言葉があります。ギリシャ語を語源とする言葉だそうですが、事典ではこう説明されています。
@《ギリシャ語で、神の賜物の意》超自然的、超人間的な力をもつ資質。預言者・呪術者・軍事的英雄などにみられる、天与の非日常的な力。
A人々の心を引きつけるような強い魅力。また、それをもつ人。
                    (「ブリタニカ国際大百科事典」から)
 「カリスマ」という言葉から念頭に浮かぶことを的確に説明しています。例えば「あの人にはカリスマがある」とか、「カリスマ美容師」「カリスマ指導者」などという言葉を聞くことがあるからです。ここから、リーダーや人目を引く仕事を目指す人は「魅力あるカリスマとは何か」を追い求めるでしょう。逆に自分にはカリスマがないとあきらめ、嘆く人もいるはずです。

 

  聖書の「カリスマ」
 でも「カリスマ」という意味はそうであろうかと疑問を抱くのです。事典で《ギリシャ語で、神の賜物の意》と、元もとの語源について説明していることが気になりました。「カリスマ」という言葉が、新約聖書のギリシャ語の「カリスマ」を語源としていると教えていますが、しかし実際に読んでみると、そこに書いている「カリスマ」とはずいぶんと異なることが分かります。
 例えば「ローマの信徒への手紙」に「カリスマ」のことが書かれています。「賜物」という訳です。そこでは、「賜物」とは一部の人だけに与えられるものではありません。それぞれに異なるのですが、選ばれた人や特別な人だけに「賜物」が天賦のように付与されているのではない。どんな人にもカリスマがある、これが大切な教えです。
 ですから、新約聖書を確認して気づかされたことがありました。《ギリシャ語で、神の賜物の意》という事典の指摘は正しいのですが、本文の解説は「ローマの信徒への手紙」の本意と異なるものになっているということです。いや、まったく逆の意味に変っているのです。

 

  健全な「カリスマ」
 「カリスマ」を特別な才能とするならば、勝利者だけに与えられた称賛と勲章の意味になることでしょう。たしかにこれは、努力する目標となり、モチベーションを高めるという意味ではポジティブなものです。しかししばしば誤った特権意識を生み出し、差別意識を醸成することにもなるのです。手紙はこのことを知って、本来のカリスマには、互いの賜物には違いあっても、そこに何の優劣もないことを教えるのです。それだけでなく、互いを認め合うこと、他者のカリスマから助けられること、補い合うことの大切さを力説するのです。
 健全な「カリスマ」がある。「ローマの信徒への手紙」には「あなたがたはこの世に倣ってはいけません」(12:2)という言葉もあります。どうしても私たちはこの世の「カリスマ」の理解に合わせてしまいます。果たして、優越感と劣等感のきしみを生みだし、他者を見る目もゆがんで来るに違いない。
聖書の「カリスマ」に呼び戻され、たとえ欠け多き自分の賜物であってをそれを喜び、他者の賜物に尊敬の思いを呼び起こしたいものです。
                     (2019年11月21日)
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「迷い出た羊」と「見失った羊」のたとえ

 

   徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

  すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪
  人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだし
  た。そこで、イエスは次のたとえを話された。…   
                  (ルカ福音書15:1〜3)

 

(渡辺貞夫の版画)

 

  迷い出た羊のたとえ
 「迷い出た羊のたとえ」があります。百匹の羊の中の一匹が迷い出たのです。すると羊飼いは九十九匹を山に残してまでも迷い出た羊を捜しに出かけて行き、とうとう見つけ出すのです。福音書を読んだことのない人でも知っている、とても有名なたとえと言えるでしょう。
 実際に福音書を手にする人は、このたとえが二つの福音書にそれぞれに書かれていることを知ることになります。しかも、それぞれが異なった視点で書いていることに気づくはずです。
 「迷い出た羊のたとえ」とはマタイによる福音書で、もうひとつのルカによる福音書では「見失った羊のたとえ」となっています。何が違うのか、その違いの意味はどこにあるのか、このような問いを持って読むならば、実に興味深い読み方が生まれて来るのです。「味読する」という言葉がありますが、聖書を味わいながら楽しく読むコツがここにあるのです。「おや」という小さな驚きと「どうしてかな」という問いを持つのです。
 「迷い出た羊のたとえ」とは、羊が自分の過ちや失敗で迷子になってしまったという響きが強いのです。言うところの「自己責任」です。よそ見をしながら歩いていたら、仲間からはぐれて道迷ってしまった。今はスマホがあれば迷子にはならないでしょうが、とにかく自分の過失です。人生に迷うということもあります。ひとりだけ取り残されたかのように、世間の迷子になってしまうこともあるはずです。しかし羊飼いなる神様は、自己責任とばかりに放っておくのではなく、捜し出してくださるというのです。

 

  見失った羊のたとえ
 これに対し「見失った羊のたとえ」は、羊飼いが一匹の羊を見失ってしまったという話です。迷子になった羊自身の責任ではなく、むしろ羊飼いの方に過失があるかのようなたとえなのです。
 だからこのたとえでは、「見失った羊一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と、羊飼いの必死さが伝わってくる表現になっています。道から離れた羊の方に大きな責任があることは確かなのですが、しかし羊飼いはそれを咎めず、それどころか自分の過ちに原因があり、自分が目を離したからこうなってしまったとばかりに、自分が責任を負うのです。
 このように、同じ迷い出た一匹の羊のたとえでも、描き手の思いと同じ視線に立って読めば、味わい深い読み方が増してくるように思います。

 

  神が喜ぶ
 だからこそ、彼らがイエスの下に、つまり神様の下に帰って来たのであれば、それがどんなに喜ばしいことだろうかと、容易に想像することができるはずです。
 もちろん、イエスに歓待された徴税人や罪人たちがまず大喜びしたことでしょう。でも、このたとえでは彼らの喜びについては何も触れていません。「喜ぶ」という言葉が三回も出て来るのにもかかわらず。ではその「喜び」はだれの喜びなのでしょうか。
 羊飼いの喜びなのです。しかも羊飼いは自分だけが喜ぶのではなく、「一緒に喜んでください」と友達や近所の人々をわざわざ呼び集めて言うのです。
 もうお気づきでしょう。「一緒に喜んでください」と本当に呼びかけられているのは、実は律法学者たちなのです。
 神が喜ぶのです。徴税人や罪人たちの喜びもさることながら、神様の喜びはどれほどであろうか。これをいかに感受できるのか、実はこれがこのたとえの主題なのです。この主題は、後に続く「放蕩息子のたとえ」にも重なっています。
 だから、律法学者たちに留まらず、私たちだれにも潜んでいる「隣人の喜びと神の喜びへの不感受性」にも、このたとえは気づかせてくれるのです。
                        (2019年10月4日)
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神と共にある言葉

 

  エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、
  この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が
  話されているのを聞いて、あっけにとられた。人々は驚き怪しんで言った。
   「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。

                         (使徒言行録1:5〜11)

 

  言葉の乱用
 聖霊降臨日(ペンテコステ)の出来事と並んで読まれるのが「バベルの塔」(創世記11章)の物語です。そこには「れんがを作り、それをよく焼こう」という人々の言葉が出て来ます。いつ頃の時代でどの地域なのか確定できませんが、多分、世界4大文明の中でも一番古いとされるメソポタミア(現在のイラクなどの地)を背景にした物語だと思われます。れんがを積み上げるために、「しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とも言うのですから、大変高度な文明がここにはあったのです。
 ところが、このような高い技術を手に入れた彼らは、天に届くほどの塔のある町作りを目指し、実現したのです。しかし、それは神様の喜びとはなりませんでした。「塔を天に届くようにし、自分たちの名を上げよう」という目標に邁進したからです。自分たちの技術で、神の領域である天にまで届くことができるという誘惑は(そんなことは実際は不可能ですが)、蛇がエバを「この木の実を食べると、目が開け、神のようになるはずだ」とそそのかしたことにとても似ています。その過ちの原因が、皆が一つの言葉を話していることにあると知った神様は、彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられないようにされたのです。
 このような仕打ちは神様の悪意のようにも感じられますが、そうではありません。このままでは本当に身を滅ぼしてしまうことを案じられたのです。

 

  神を証しする言葉
 では聖霊降臨日に起こった出来事はどんなことだったのでしょうか。この日の出来事は「言葉の回復」であると言われることがあります。バベルの塔で混乱させられた言葉が、再び一つになり、本来あるべき言葉が回復したというふうに理解するのです。しかし、使徒言行録2章に記された出来事をよく読むと、ただ単にバベルの塔以前に戻ったということではないことが分かります。諸国、諸民族の多様な言葉が元のように一つの言葉に統一されたのではないからです。それどころか逆に、エルサレムにはたくさんの言葉が満ち溢れ、益々混乱した様相を呈していたのです。

 

  神と共にある言葉
 この不思議な出来事に人々は、「私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と戸惑いました。この言葉にこそ「言葉の回復」と言われる意味が示されているように思います。言葉が正しい目的のために用いられたこと、それが言葉の回復なのです。様々な言葉のいずれもが「神の偉大な業」を証しするために用いられたのです。
 ここで私たちはクリスマスの時に聞く、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった」(ヨハネ1:1)という言葉を思い起こすことでしょう。神と共にある言、これがまず第一であり、ここからすべての他の言葉も始まって行くのです。だから言葉は「自分たちの名を上げる」ためではなく、神様を賛美し、この方のことを語るためにまず用いられなければならないのです。
 では、私たちのこの世界はどうなっているでしょうか。様々な言葉に溢れ、おびただしい情報が乱れ飛んでいます。バベルの塔の時代から比べものにならないほどの高度な技術を人類は手に入れたのですが、それらを何よりも自分の利益や名声のために用いているところは何も変わらないのです。

 

  教会の使命
 だから教会の存在、キリスト者の存在の意味が大きいのです。もちろん教会も宣教を自己目的化してしまったり、キリスト者といえども自分の利益のことしか考えないような落とし穴に陥る危険が常にあるのです。しかし聖書の御言葉に聞き、本来の言葉の目的を思い起こすことで、立ち直ることができるのです。何よりも「神の偉大な業」を証しするために言葉を用いる群れ、私たちの教会もそうありたいと思うのです。   (2019年6月9日)
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          ブリューゲル作「バベルの塔」(1563年)

 

 

正しい人

 

 十字架を覚える受難週に入りました。この一週間(聖週間)は特にイエス・キリストの十字架のできごとを覚えることになります。このために福音書に目を落としたいものです。

 教会は今年はルカによる福音書を礼拝ごとに読むことになっています。それぞれの福音書がそれぞれに異なったことを書いていることに気づきます。その一つが「百人隊長」の言葉です。イエスが十字架の上で息を引き取られた様を、一番近いところで見ていたの百人隊長(百人の兵を率いる隊長)だったのでしょう。彼は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したというのです。他の福音書は(マタイ、マルコによる福音書)「本当に、この人は神の子だった」と言ったと書いてありますので、ルカ福音書だけが「正しい人」と記していることが分かります。

 

 「正しい人」、これをもう少し別の言い方をすると「立派な人」とか「偉大な人」という意味になるのかも知れません。そこで、私たちの身近なところで「立派な人」とか「偉い人」というのはどんな人であろうかと考えてみたのです。つい先日5年後に紙幣のデザインが刷新されると発表されました。これまでの3人の肖像が差し替えられて、新たな人物像がお目見えするのです。このような紙幣に用いられる人々は「立派な人」とか「偉い人」と呼ばれるに相応しい人たちなのでしょう。
 ではイエス・キリストもそのような面々と同じように、どこか他の人たちよりも立派だったから、あるいは誰にも真似のできないような優れた方だったから「正しい人だった」と呼ばれたのでしょうか。

 

 確かに、何の罪もない方が十字架の上で苦しまれ、処刑されたしまったというご生涯は立派で、偉大であったことは間違いありません。でも、紙幣を飾る面々と同じように、凡人よりも優れた人だったから「正しいであった」と福音書が言っているのではないと私は思います。「正しい人」とは、他よりも特別に優れた働きをした人のことではないのです。一部の選ばれた人たちを指しているのでもないのです。
 福音書の「正しい人」とは、すべての人がなし得る「正しさ」のなのです。だれもがそのように生きなければならない「正しさ」なのです。イエス・キリストの十字架、そして復活までの歩みは特別なことであり、それを私たちがそのまま真似などできないことは言うまでもない。でもイエスの教えはいつも実に身近で、大袈裟なことでもなく、しごく真っ当なものでした。それと同じように、最後の十字架の姿も、私たちがいつも立ち返るべき「正しい人」の姿がどこかに表されていたのです。
 では、それはどんな生き方を指すのか、そのことについて、さらに思い巡らした行きたいと思います。         (2019年4月16日)
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十字架の真上から見えること

 

    その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をし
    ているのか分からないのです。」
          ・・ルカ福音書23:34(聖書協会共同訳)・・

 

 フランスの画家にサルバドール・ダリ(1904〜1989)がいます。実に奇妙な作品をたくさん残したことで知られていますが、彼の作品には聖書を題材にしたものも含まれています。その中で私が一番興味を抱くのが十字架です。私たちが目にする十字架の絵とずいぶんと異なっているからです。欧州を中心にした有名な画家たちがおびただしい数の素晴らしい十字架の絵を残しましたが、それらとは違うことは一目瞭然です。

 

           「十字架の聖ヨハネのキリスト」1951年作

 

   十字架を見つめる人の目線
 私たちが一般に目にしている十字架は人の目線で描かれたものです。聖書には十字架の周りにいた人々の声や姿が記されていますが、例えば「他人は救ったが、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」とイエスをののしった人々がいました。「本当にこの人は神のだった」と信仰告白した百人隊長のような人がおり、遠くで涙ながらに見守った婦人たちもいたことを私たちは知っています。彼らには、好意的に見つめたのかそうでは無かったのかの違いはありますが、地上から十字架を見上げた人たちとして描かれていることでは同じなのです。
 ところがダリは違う目線で描いたのです。「十字架の聖ヨハネ」と呼ばれるカトリックの神秘思想家の司祭にインスピレーションを得たようですが、十字架の上から見える光景を描いたのです。それは地上にいる人の目線ではなく、天から見えるに「神の目線」と言うべきものなのです。

 

   十字架の上からの声
 福音書には「十字架上の七つの言葉」(教会讃美歌86番に七つの言葉があります)と呼ばれるイエスの言葉がありますが、そのひとつが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)という言葉です。十字架の上から見える人間の姿を表現したのです。イエスからの目線、いや「神の目線」と言うべき言葉が福音書には記されています。
 十字架を目にした人たちの声は様々でしたが、もっとも大きかったのは嘲りと罵声に満ちた群衆たちの叫び声でした。彼らは十字架のイエスを見ながら、「なんと馬鹿なやつなんだ」、「ピエロのような滑稽なやつだな」と嘲笑したのです。確かに、十字架で無力に、みじめに死んでゆく姿はそう見えたに違いありません。でもそれは人間の目線でしかないのです。イエスの目には「あなたたちこそが愚かな姿に映っているんだよ」ということを福音書は伝えたいのです。
 これは十字架の出来事に限らないのです。聖書そのものがそうなのです。聖書は人の手によって書かれたものですが、しかし「神の目」に見えることの表現なのです。だから「神の言葉」と言うのです。
 ところが現代は科学技術の発展するあまり、この視点がないがしろされているように思えるのです。誰でも空の旅ができ、衛星写真によって自分の家までも鮮明に見ることができる時代になり、あたかも神の目線さえも手にしているかのように錯覚しているのではないでしょうか。
 そのような恩恵に与っているとしても、私たちはどこまでも地上に立っている存在でしかなく、どうしても自分中心の目線で生きてしまっていることは、昔も今も変わらないのです。

 

   不知の自分を知る
 イエスは侮辱する人たちを見つめ、「自分が何をしているのか分からないのです」と嘆かれたのです。それだけでなく、彼らを慈しみの目で眺め、「父よ、彼らをお赦しください」とも祈られたのです。
 今週から十字架を覚える四旬節に入ります。十字架の主イエスを見上げ、その苦しみを見つめるときです。その苦悩の意味を問い、それが私たちの罪や弱さのためであったことを噛みしめるときを過ごしたいのです。
 それだけでなく、「十字架が愚かなもの」(Tコリント1:18)にしか映らない多くの隣人に対して、それこそが人間の目線でしか見ていないのではないかと問いかける者でありたいと思います。人間の視野がどれほど狭く、大切なことが見えていないことを伝える者でありたいのです。      (2019年3月3日)

2018年

飼い葉おけと十字架

 

 「わたしはアルファ(Α)であり、オメガ(Ω)である。初めであり、終わりである」(ヨハネ黙示録21:6)

 

 この季節にはクリスマスにまつわる様々な書物や絵本に出会うことができます。『クリスマス・ブック』(新教出版社)もそのひとつです。ルターの説教が納められていて、大人から子供まで楽しめる平易な内容ですが、とても豊かなものです。少しだけご紹介しましょう。

 生まれたばかりのイエスが寝かされた「飼い葉おけ」にまつわる話です。「飼い葉おけ」からすぐ連想することは汚さや粗末さですが、ルターは飼い葉おけが木で作られていたことに目を留めるのです。その木は近くの森から切り出されたものに違いないというのです。確かにイエスがお生まれになったベツレヘムの周囲には森があったのでしょう。でも、なぜルターはそのことに注目するのでしょうか。

 ベツレヘムから北へ7キロほどのところにエルサレムがあること、さらにクリスマスから30年ほど後のエルサレムでの出来事を想起させようとするのです。そう、十字架です。十字架も飼い葉おけと同じように木で作られたものでしたが、その木はエルサレムから見れば南に広がる森、ベツレヘムから見れば北の森、つまり同じ森から切り出された木であったというのです。その真偽は定かではありません。でもルターの説教は、とても大切なことを教えているように思えるのです。イエス・キリストのご生涯は、誕生の時から十字架へと向かうためであったことを教えているからです。
 「わたしはアルファ(Α)であり、オメガ(Ω)である。初めであり、終わりである」とあるように、神様の出来事には始まりがあるだけでなく、終わりがあるのです。イエスのご生涯もこれと同じで、ベツレヘムで始まり、エルサレムでの十字架と復活で終わるのです。
 教会のクリスマスはこのことを大切にするのです。クリスマスイブで終わるのではなく、ここから始まるのです。教会の外では聖夜が終わった時から、その余韻に浸る間もなく、慌ただしく年の瀬と正月を迎える準備へと切り替わるのです。そうではなく、クリスマスから主の十字架と復活への道を辿る旅が始まる。イエスの教えに耳を傾ける歩みです。教会の暦にも初めがあり、終わりがある。ゴールを目指す歩みをご一緒に始めましょう。               (2018年12月2日)
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名もなき女の信仰

 

 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人で、…娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「…子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ…食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」   (マルコ福音書7:25〜28)

 

 時として、イエスの言動に違和感を覚えることがあります。「悪霊に取りつかれた幼い娘をもつ女」の話がそうでした。
 悪霊の仕業に苦しんでいる娘の母親が、どれほど必死に助けを求めたか分かりません。だれに頼っても願いがかなうことなく、絶望し、途方に暮れていたのです。その時病人を癒したイエスのうわさを耳にしたのです。ガリラヤ湖から50キロほど離れた港町にも知れ渡っていたのでしょう。母親は必死の思いで外国人のイエスの下に駆けつけ、わらをもすがる思いでひれ伏して癒しを願ったのです。
 ところがいつもと違ったのです。イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取り上げて、小犬にやってはいけない」と門残払いしたのです。子供たちとは同胞のユダヤ人たちのことで、小犬とはギリシア人を含めた外国人を指していました。ここでは自分の家で飼っているペットの小犬を連想してはいけません。「犬なんぞに」という訳が良いという人もいるほどです。

 

 聖書が翻訳されるたびに差別的な言葉や不快語が修正されて来ました。「らい病」が「重い皮膚病」と訳し直されたのが代表例です。ただここでは用語の問題どころではありません。イエスの教えそのものが問題だからです。慈愛に満ちた態度で振る舞うどころか「小犬」と呼び、しかも同胞のユダヤ人のパンしかないと突き放すのです。今日ではこれを「差別」と言い、突き放された母親が訴えたならば、イエスが窮地に追い込まれるような話なのです。
 なぜイエスは冷たく突き放されたのだろうか。私たちはこの話をどう受け取ればよいのだろうかと、様々な疑問が頭をもたげるのです。ある人は「いつものイエスの言動とはずいぶんとかけ離れているんだから、あまり真剣に耳を傾ける必要はない」と軽く聞き逃すように勧めるのです。さあ、困ったものです。

 

 イエスはユダヤ人でした。福音書を書いた人物もユダヤ人でしょうから、その時代の習慣や常識というものの影響を受けていたはずです。奴隷がいるのが当たり前で、女性や多くの人々の声が公の声として反映されることなどない時代です。いつの時代も存在する様々な社会悪に反対し、抗議しなければならないことがありますが、でも、そこだけに目を奪われることは適切でないのです。この話がそうなのです。
 イエスの視線はもっと違うところにあったのです。もっと身近で、もっと足元のことです。私たちの誰もが、娘や母親と同じように直面することに光を当てるのです。
例えば、後回しにされていると感じることがあるはずです。私には一つ上の兄がいますが、兄の使ったお古をあてがわれるたびに、いつもおこぼれにしか与れないような悲哀を子供ながらに感じたものです。微笑ましい記憶ですが、それぞれの人生には、いつも後塵を拝しているように思え、隣人と比べて自分は貧乏くじを引かされているような気分に陥ることがあるはずです。母親はイエスのあしらいに、「それは差別ではないか」とか「後回しとはひどいじゃないか」と抗議をしなかったのです。
 「理不尽なことに抗議しないから、社会の差別がなくならないんだよ」と母親の謙虚な行為を非難する人もいますが、私にはそうは思えないのです。娘のために必死だったのです。納得できない現実を飲み込んでいるのです。いや、それだけでありませんでした。わずかなパン屑であっても、それだけで娘の病気が癒されると固く信じていたのです。

 

 信仰に満ちた女の言葉にイエスの対応が変わりました。こちらの方がイエスの当初からの思いだったのです。端から女が外国人か同胞かは問題ではなかったのです。イエスの最初の態度に、彼女の心の中には不満と怒りの声がもたげたことでしょう。人間的な自然な声です。でも、それだけではなかったのです。信仰の声です。その声をイエスは待っていたのです。
 私たちの心の中にも、納得に行かないことへの不満や怒りの声があるはずです。しかしそれを超えて出て来る声がある。他者に比べればわずかで、後回しにしか思えない神様の恵み・祝福に思えたとしても、それさえあれば十分であると信じる声がある。信仰の声があるところに必ず恵みのできごとが起こるのです。
 事実、娘の病は癒されました。それは母親の心の中にあった人間的な不満と怒りの声が力を無くし、信仰の声が勝利した瞬間でもあったのです。
 私たちもこの女の信仰にならうものでありたいと思うのです。 
                           (2018年9月9日)
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種のたとえ

 

 イエスは身近な生活の営みの中から、いつくものたとえを話されました。「種のたとえ」がそのひとつです。
 例えば「種を蒔く人のたとえ」(マルコ福音書4章1節〜他)があります。ある人が種を蒔いたのですが、道端に落ちた種があり、また浅い土の上に落ちたもの、茨の中に落ちた種もあったというです。道端の種は鳥が来て食べてしまい、浅い土の種はすぐに芽を出したものの、根が張っていないのですぐに枯れてしまうのです。茨の中の種は茎までは成長したものの、茨に栄養を吸い取られ実ることができなかったのです。最後の種は良い土地にまかれたので、豊かな実りを結び、ある種は30倍、60倍、そして100倍の収穫をもたらしたのです。
 この種は「神の言葉」のたとえだったのです。イエスの教えを聞いてもまったく無関心な人、一時期は熱心に聞いてもすぐに飽きる人。つかず離れず長く付き合うが、しかし結局は実を結ばない人をたとえているのです。その人次第なのです。イエスの教えをどう聞き、それをどう自分の生き方に据えて行くのか、その人の対応次第で異なって行くのです。

 

 ところがこの「種を蒔く人」のたとえは、もうひとつの展開があるのです。それは「成長する種のたとえ」(マルコ福音書4章26節〜)です。ここでは、良い土地にまかれた種のその後のことが語られるのです。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのである」とイエスは言われるのです。ここでは「その人次第」ではないのです。寝起きしている間に勝手に種は成長するのですから、その人の力はもう及ばないのです。いや、もっと違う言い方をすれば「もう何も心配しなくてよい」のです。
 同じ種のたとえを語りながら、最初はまるで決断を促すかのように「あなた次第だ」と言いながら、もう一方では「もうあなたの力は及ばない、もう心配しないで任せなさい」と、相矛盾するかのような教えです。どちらが本当の教えかと問いたくなるほどです。しかしそうではないのです。どちらが正しいのかではなく、どちらも本当に大切なのです。イエスの教えを受け入れるかは、やはりその人次第なのですが、しかしそれを受け取り、大事にしたいと決断した人は、もう良い土地に蒔かれた種のようなものですから、安心して良いのです。

 

 神の言葉、すなわちイエスの教えには力があるからです。その種が芽を出すタイミングや、実りや花を咲かせる時もそれぞれの植物が異なっているように、千差万別である。実りの大きさも形も異なるのですが、しかし「あなたが寝起きして間にも、あなたの中で神の言葉は確かに成長しているのだから、安心しなさい」と言われているのです。
 教会に植えられた「被爆カンナ」もそうでした。他の地に植えられたものに比べ、教会のカンナは花が咲くのがとても遅かったのです。「もう咲かないのじゃないの?」とさえ悲観したくらいです。でも「成長する種」のたとえを忘れていました。神様は私たちが寝起きしている間にも成長させてくださっていたのです。私たちにまかれた「神の言葉」という種はなおさらそうに違いありません。

 

 1945年8月6日の広島原爆投下から1ヵ月、焼け野原となった広島の街は復興にはまだほど遠い状況でした。ところが、爆心地が820メートルの石壁の下に、真っ赤なカンナが咲いたのです。そのカンナを偶然見つけた朝日新聞のカメラマンが写真に納め、その白黒の写真が広島平和記念資料館に「焦土に咲いたカンナの花」(被爆カンナ)として展示されることになりました。
 2007年からは、原爆に負けずに咲いた赤いカンナを「平和の象徴」として人々に語り継ぐ運動が始まりました。それが「カンナプロジェクト」で、広島に植えてあったカンナを株分けする活動です。
 都南教会では、昨年の記念礼拝(宗教改革500年を覚えて、ルーテル教会とカトリック教会の共同の礼拝が長崎の浦上教会で開催されました)でいただいたカンナの株をここに植えました。「真っ赤なカンナ」を見るたびに、平和を祈念する機会としたいと願っています。                 (2018年7月19日)

               教会に咲いたカンナ

 

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聖なる霊

 

 聖霊という言葉があります。キリスト教には「三位一体」という難しい教理がありますが、神とみ子(キリストのこと)と聖霊が一体になって一つであるという教えです。ですから聖霊はとても重要なものになるのです。ただ、聖霊は姿は見えないことから、その存在を説明することが難しく、どんなものかを理解することに困難なことから、私たちにとって縁遠いものになりかねません。
 マルティン・ルターは聖霊を「慰め主(ぬし)」という言葉で表現することを好みました。だれでも人生において失敗することが起こり、困難なことに直面することがあります。そのときに落ち込み、疲れを覚えるはずです。ルターも例外ではありませんでした。慰めを必要とする人物であったのです。そのときに彼は聖霊による慰めをいつも体験したのです。
 ただルターにとっての聖霊とは、何か浮遊しているような霊が降って来るというようなものではありませんでした。いつも聖書の言葉を伴い、その言葉と一緒に語りかけてくれるものと理解しました。苦難のときも、苦悩のときも聖書の言葉に慰めを与えられ、そのたびに聖霊の存在を確信したのです。
 だからこそルターはたくさんの人に手紙を書き、慰めの言葉を送った人でもありました。驚くほどの膨大な手紙をルターは残していますが、いつも聖書の言葉を添え、その言葉によって悲しみや苦悩の中にある人たちを慰めたのです。

 私たちも時々に慰めの言葉を必要とするものです。自分に慰めの言葉を語ってくれる人はたくさんいたとしても、本当に慰めに満ちた言葉には違いがあると思います。真心のこもった言葉が慰めに満ちているはずです。ただ、ルターは「人の真心」以上のことを教えているのです。「神様の真心」と言うべきものです。それは聖書の言葉に記されており、イエス・キリストのみ教えに包み隠さず表されていることを教えているのです。

 聖霊の息が聖書の言葉には吹き込まれているのです。その言葉に心を開き、受け取るときに、聖霊がその人を慰め、励ますのです。そしてその人は、隣人に対して真に慰めを語る人として用いられて行くに違いありません。
                         (2018年5月22日)
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この世での「よみがえり」

 

 イースターを迎えました。イエス・キリストの死からの復活を覚える時です。

 それにしても「復活」とは不可思議なお話しです。十字架で息を引き取り、墓に納められたはずのイエスが、三日目の朝によみがえったと言うのです。
 ある人がこうに言いました。「医療の世界でも、心臓が止まっていた人が蘇生することがあるじゃないか」と。つまり、医学の蘇生と復活が同じだと言いたいのです。しかしキリスト教の復活は蘇生とは違うのです。

 

 そもそも、人の死の理解が異なるのです。医療の世界では、心臓が止まることや脳の活動が終わることを「人の死」と考えるはずです。私たちもその考え方に沿って理解しているはずです。しかし聖書はそうではないのです。たとえ心臓と脳が正常に動いているとしても「死んでいる」とさえ言うことがあるのです。その代表が神様に背を向け、自分中心に生きている姿です。(2016年3月8日の「牧師室だより」を参考してください)

 

 復活とは、地上の生涯を終えて死んだ後に起こることと理解されがちですが、実はそれは誤解なのです。もちろんキリスト者は、この世の人生を閉じた後の天国と復活のことを信じる者です。でも、それだけではないのです。いやむしろ、今の地上での人生に問いかけるのです。「私は元気に健康的に生きているから、病気や死とは無縁だ」と自負している時こそ、死の縄目にかかっているのではないかと。それが聖書の死の理解です。

 

 とすれば、復活とはこの地上で生きている時に起こることなのです。「あなたは神様の声を聞かず、人の声だけに耳を澄ましていないか」と問いかけ、「それは死んでいることと何も変わらないのだよ」とイエスは諭すのです。だから神様の方に顔を向け直し、新しい生き方に方向転換することこそが大切なことなのです。 
                           (2018年4月4日)
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鳥の巣

 

 寒かった冬もようやく終わりを迎えるところまで来ました。昨年の秋に植えられた水仙が今咲き乱れています。春遠からじと告げているようです。
 教会にはその他にハナミズキやぶどうが植えられていますが、もうすぐ新芽がもたげることでしょう。しかし今はまだ、枝だけがむき出しの状態です。昨年の暮れに、そのハナミズキの枝にあるとても珍しい光景に気づきました。すでに全体教会の機関誌で用いさせていただきましたが、その文章を紹介させていただきます。

 

 都南教会に植えられている花水木やぶどうの木は、枝だけがむき出しになっています。冬の風景はやはり寒々しいものです。ところが最近、どことなく温かい気持ちにされることがありました。
 花水木の葉はぜんぶ落ちたはずなのに、なぜか一葉だけ残っているではありませんか。不思議に思い近づいて見上げると、野球ボールほどの小さな鳥の巣であることがわかりました。敷地の駐車場の真上にあったにもかかわらず、葉が生い茂っている時にはまったく気づかなかったのです。いや、人に気づかれないことを知っているから、何かの鳥がそこに巣を作ったのでしょう。それにしても、都心の教会でも命を育んでいる自然界の営みを身近に見ることができ、嬉しいことでした。
 主イエスが「空の鳥をよく見なさい」(マタイ6:26)と言われたことを思い出しました。「よく見なさい」と言われたのですから、人々がいかに日常の風景の中に見逃していることが多いのかを喚起されたのです。私の場合も日常の営みをよく見ていなかったことに気づかされたのですが、遅まきながら、今は風雨に晒されているその巣をよく見てみたのです。
 様々なことが思い巡らされて来ました。その一つが、なぜ人通りの多いところに巣を作ったのだろうかということです。都心には人のいない所などないという事情もあったことでしょう。でもそれだけでなく、木の下を通り過ぎる人たちが危害を加えることはないことを、独特のセンサーで感じ取ったに違いありません。だから安心して巣作りと子育てを行ったのです。
 この「安心」という言葉は、鳥の巣作りだけのことではないと思います。それは「平安」とか「平和」という言葉に言い換えることができるでしょう。人が生きて行くためには欠かせないものです。しかしいつの時代でも、人々の生活では、それが危機に晒されているという現実から逃れることはできないのです。
 教会の敷地に鳥が巣をこしらえたことは偶然かもしれません。でも私には、教会の存在の意味を改めて喚起しているように思えるのです。それは、キリストの平和を外に向かって宣教し、その平和の姿が少しでも目に見えるように、教会の内でも実現して行かなければならないという使命の存在です。気高い使命ですが、憶するっことなく、期待と励ましの言葉と受け取りたいのです。 
                           (2018年3月3日)

         夏の間はこうのような光景だったのでしょう。

2017年

 

荒れ野で叫ぶ声あり

 

 教会の暦は12月から新しくなりました。今回から、このコーナーも「です、ます」調に新たに変えることにしました。

 

 さて、教会の暦はアドベントを迎えています。「待降節」と訳されますが、「降臨を待つ」という意味になります。降臨とはクリスマスのことですが、それは、神の霊、すなわち聖なる霊の降臨によって、この世に神の子イエス・キリストが誕生したことを教えているのです。ですから、この時期は「待つ」ことに意味があるのです。
 では、どのようにして待つことが相応しいのでしょうか。そのひとつが、聖書の記しているクリスマスがどんなことだったのか、それを少し学んでみることでしょう。もうひとつ挙げるならば、このアドベントの時期に教会で読まれる聖書について学ぶことです。
 先日は洗礼者ヨハネという人物についてのお話しでした。ヨハネはイエス・キリストに洗礼を授けた人ですが、彼は荒れ野にいて、そこで人々に「悔い改めよ」と叫んでいたのです。「荒れ野」とは、どんなところであったのか、私たちには想像しにくいのですが、でも、決してユダヤや中東の国の砂漠のような地域や気候を想像する必要はないのです。日本でも「荒れ野」というものを見つけ出すことができるのではないでしょうか。
 よく耳にすることですが、「慌ただしい」という漢字は「?=心」に「荒」という字を書きます。ですから「心が荒れる」という意味になるのでしょう。誰もが「慌ただしさ」の中に生きているわけですが、それはいつしか「心が荒れる」ことにつながりかねないことを、東洋の知恵は教えているのです。とすれば、「荒れ野」とは決して地理的・気候的なことではなく、誰にもある身近なものであることが分かるのです。
 「悔い改めよ」というヨハネの叫びは、慌ただしい毎日を過ごし、忙しい時を過ごしている私たちに向けられているように思えるのです。「悔い改めよ」とは、方向転換するという意味を持っています。慌ただしさの中に生きざるをえない私たちですが、そのような毎日にいつしか翻弄され、明日のことを思いわずらい、目先の生活のことだけに意識を奪われかねないのです。方向転換とは、その目を違う所に向け直すということです。少しの時間だけでも良いのです。ヨハネは「神様の方に目を向けよう」と呼びかけたのです。

 アドベント。この期間は、しばし足を止め、目と思いの方向を転換して行く良い機会ではないかと思うのです。日曜日ごとの教会の礼拝はそのために用意されているのです。もちろん、日曜日ならずとも、礼拝堂はそのようなために開かれています。 

                         (2017年12月15日)
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いま、この国で「宗教改革500年」を覚える

 

 1517年10月31日に宗教改革は始まった。当時カトリックの司祭であり、神学の大学教授だったマルティン・ルターがその先駆者である。今年は500周年を迎えるが、その500年の歴史は様々なものを作り出して来た。それはポジティブなものであったと私たちルーテル教会に属する者は確信しているが、しかし何ごとも違う角度から見れば異なったものに映るのと同様に、ネガティブな見方をする人たちもいた。ルターから激しい批判にさらされたカトリック教会である。ルターは、私たちにとっては優れた指導者であり、信仰者であったが、カトリックからすれば異端児であり、これまでの秩序や教えを破壊するならず者でしかなかった。ゆえに宗教改革はこの両者の大きな溝を作り出したとも言えるのである。

 

 しかし、その深い溝を埋めるための努力が始まった。50年ほど前のことである。カトリック教会がルーテル教会を始め、他のキリスト教派との対話への方針に大きく舵を切ったのである(1964年にその教令が発布される)。それから私たちルーテル教会とカトリック教会との国際レベルでの神学的な対話がまず始まった。その成果が文章化されることになったが、最も代表的なものが『争いから交わりへ』(翻訳は2015年、教文館)である。そしてさらに目に見える形で表されたのが、昨年の宗教改革記念日に(10月31日)スウェーデンのルンドで、ルーテル世界連盟(LWF)のムニブ・ユナン議長(代表のこと)とカトリックのフランシスコ教皇との共同の礼拝と声明である。

 

 この流れを受けて来月(11月)23日には、長崎のカトリック浦上教会で、日本カトリック司教協議会と日本福音ルーテル教会の共同の礼拝とシンポジウムが開催される予定である。狙いは、500年前に始まった宗教改革が互いの教会に争いと不信の溝を作り出したことを認め、この500周年をそれらに決別し、「争いから交わりへ」と新しい道に歩み出そうとする決意を示し、それを見える形で表現し、実践することである。小さな一歩かも知れない。しかしそれが大きな意義と意味を持つことを信じてやまない。世界中が分断と争いの方へと突き進んで行こうとしている今、私たちの日本の国においてもそれは意義深いものとなろう。

 

 そしてそれはイエス・キリストのもっとも大切な教えであったことを思い起こしたい。ドイツのルターゆかりの地を訪ねると、しばしばルターの銅像に出会う。「聖書のみ」と主張したルターらしく、聖書を開き、ある個所を指指しているルターの銅像である。その聖書の箇所はどこであろうか。きっとそれは、この度の長崎での共同の礼拝とシンポジウムの主題となる聖書の箇所ではなかろうか。「平和を実現する人々は幸いである」(マタイによる福音書5:9)と「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)という主イエスのみ教えと祈りに違いない。 
                         (2017年10月30日)

                ルターのバナー
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地に足の着いた「隣人愛」


 

 先週「隣人愛の危機」というタイトルの新聞記事に目が留まった。都南教会の属する日本福音ルーテル教会は、世界のルーテル教会を束ねた連盟に加盟しているが、それがルーテル世界連盟(LWF:ジュネーブに本部があり、145教会が加盟)である。その連盟の前議長のムニブ・ユナン監督のインタヴュー記事である。

 

 ユナン監督はパレスチナ難民の両親の下に生まれた。牧師となり、エルサレムにあるルーテル教会の監督として現在も働いている。7月に来日した折のインタヴューである。
個人的にも面識のある方であるが、彼から発せられる言葉はいつも重いと感じる。「隣人愛」という聖書の言葉を語ると、それは地に足の着いた響きを与えるのである。逆に言えば、巷から耳に届いて来る隣人愛の叫び声は、しばしば理想論や浮ついたお題目にしか聞こえないのは私だけではないだろう。もちろん、私自身の発する言葉もその例外ではないと思う。そうすると、このような浮ついた愛に関する言葉の虚しさを指摘し、「そんな言葉は甘っちょろい」とか「そんなものは厳しいこの世界では通用しない」と、それらを全面的に否定してしまう別の言葉が力を増すことがある。しかしそれは悪魔にそそのかされた言葉と言わなければならないと思う。ではどんな「隣人愛」が大切なのだろうか。

 

 新聞記事に戻ろう。エルサレムは民族、国家、宗教が入り乱れた、いわばるつぼのような町である。これまでたくさんの争いを体験し、多くの地を流して来たつらい歴史がある。それは今も続いている。ユナン監督はそのエルサレムで、2005年にイスラム教やユダヤ教、そしてキリスト教(これにも諸教派がある)の指導者らと共に「聖地宗教評議会」を立ち上げたという。宗教者間の対話の場を設けたのである。
 次の言葉に私は心を打たれた。「私はユートピア的な解決を語っているわけではなく、現実的な解決を求めているのです。私たちは自分が望むような隣人と暮らすわけではない。あるがままの隣人と共に生きなければならないのです」。地に足が着いた言葉とは、浮ついた理想をいたずらに語るのではなく、今の現実を受け止め、そこで生きる決断をした人から発せられる言葉なのだろう。
 そしてユナン監督は、現実を受け止め、そこで生きる決断をしているだけではない。もしそれを突き詰めて行くならば、隣人に銃口を向け、他者を排除する論理へといとも簡単に変わってしまいかねないと思う。そうではない。ユナン監督はさらにこう言う。「隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分と異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです」。イエス・キリストのもっとも重要な教えとも言える隣人愛の教えが欠かせないのである。その隣人愛の出発点をこの言葉は指し示していないだろうか。

 

 日本とパレスチナ地域とは歴史も状況もあまりにも異なっているが、日本を含めた世界中が偏狭な愛に傾きつつあるときに、ユナン監督のインタビューには、私たちに大きな示唆と励ましを与えてくれた言葉が載せられたように思う。 
                          (2017年9月29日)

          イスラエル:右から6人目がユナン監督

 

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蛇のような賢さと鳩のような素直さ

 

 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)というイエスの教えがある。その前に「(あなたがたを)狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という言葉がある。狼の中で生きてゆくためには、賢さも必要だという意味であろう。「狼の中」とは、この世の中と理解することができるだろう。

 例えば、この世で商売をし儲けを出すためには、ある種の賢さがなければならないだろう。何の工夫もなく周りと横並びだけでは、商売はうまく行かない。国際競争が一段と厳しくなっている今日であればなおさらである。でも、賢さだけで良いのか、それがイエスの問いである。

 

 この世では確かに「賢さ」が必要となることがある。でもそれだけを追い求めるときに、どうしても忘れてしまうことがある、それをイエスは指摘されているのであろう。「素直さ」である。これは「純粋さ」という意味でもある。
  この「純粋さ」をこういう譬えで説明できよう。山に登ることがある。高い山である。1000メートル、2000メートルと登れば登るほど、下界とは違う空気になってくる。3000メートルともなると生活音が消え、鳥のさえずりまでも消えてしまう。空気も随分と異なってくる。純粋さが露出しているところである。
  実はイエスもしばしば山に登られたようである。高い山ではないが、群衆や弟子たちを残して、ひとりで山に登り、そこで祈られたのである。神様との対話のためである。神様の声を聞かれたのであろう。その声は人々の声や生活音に満ちているところでは聞こえにくい。それらによって邪魔をされ、聞こえなくなってしまうことを恐れられたからであろう。

 

  私たちの日常の生活を振り返るときに、様々な騒音や生活音に満ちていることに気づかされないだろうか。いつの間にか「蛇のような賢さ」だけを追い求めるような声に支配され、「素直さ」や「純粋さ」を蹴散らすような毎日であるように感じないだろうか。そもそも、人はこの「素直さ」や「純粋さ」をどんな人も持っているものだと聖書は教えている。それが見失っているだけである。

 

  そしてさらに大事なことは、その「素直さ」や「純粋さ」なしには、神様の声がなかなか聞こえないということである。神の声は様々なところから聞こえてくるのかもしれない。山に登ったときに聞こえることもあろう。ただ、一番確かに発せられている神の声は聖書の言葉だと私は信じている。イエスの教え、預言者や使徒たちの教えである。
 この声を聞くために、教会の扉は開かれている。そこでは、生活音の満ちているこの世の中にあって、ささやかなる静けさが支配しているように思う。ここで「純粋さ」を回復するのである。             (2017年7月14日)

 

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神に向かって叫ぶ

 

 イエス・キリストのご生涯を描いたのが福音書である。そのご生涯と言っても、30年余りの人生をまんべんなく辿っているのではない。とくに詳しく、ページを割いているのが十字架のできごとである。ここからイエス・キリストのご生涯のクライマックスは十字架であったことが分かる。
 十字架について四つの福音書はそれぞれに異なる描き方をしている。だれかの偉人伝を描くにしても、書き手の視点や切り口でずいぶんと異なる人物像が出来上がるのと同じように、各福音書のイエスのご生涯もこれに似ている。

 

 マタイによる福音書に注目してみよう。十字架につけられたイエスが発した言葉はひとつだけ記されているに過ぎない。しかもそれは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)という神をうらむかのような叫びである。この情景を想像しただけでも恐ろしさに満ちていないだろうか。この最後の絶叫の記事を読むならば、戸惑いとつまずきを覚えざるをえない。
 私のような弱虫で我慢の足りない人間ならまだしも、「神の子」と呼ばれ、凡人とは異なる生き方をされた方が、なぜこのような酷い死に方をしなければならなかったのかと思う。人生を達観し、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を残して、戦国武将の信長の迫害に悠然と耐えた偉人とはまったく異なる最後に、落胆しない者がいるだろうか。

 

 しかしよくよく福音書を読んでみると、イエスの最後の叫びには実に重要なことが書かれていることに気づく。私たちから遠く離れた「神の子」だけがなしうることではなく、普通の人が、凡人と言われるすべての人ができる生き方が示されているからである。
 イエスの叫びはだれに向かっていたのだろうか。十字架の上からのうらみの声はどこに届けられたのだろうか。「わが神、わが神」という言葉からも分かるように、イエスは父なる神に対して、深い悲しみや耐えがたい苦痛と絶望のすべてをぶつけたのである。これほどの苦しみを味わった方ならば、神を呪い、神に棄て、神に向かって叫ぶことを止めるのが当然ではないだろうか。しかしそうではなかった。最後の最後まで「わが神よ」と、神にすべての思いを向けたのである。

 

 今日の私たちが十字架につけられることはない。しかし、様々な苦悩や悲しみ、理不尽な重荷を背負わされることが誰にもある。この意味では、誰もがそれぞれの形をした十字架を担っていると言えるのではないだろうか。だから私たちもイエスがなされたことを思い出すのである。

 

 福音書は十字架のできごとで終わっていない。絶叫のままに息を引き取ったイエスのご生涯は、そこで終わったのではなかった。三日目に甦ったのと言うのである。信じがたい不可解なできごとには違いないが、私はこう思う。それは私たちに与えられている希望ではないかと。神に向かって叫ぶしかなかったとしても、神への信頼をなくすことなく、神から離れることのない者には、絶望が希望と喜びに変わる時が与えられることを教えていると。復活の希望を信じながら神に叫ぶ者に、きっと神は祝福をくださるに違ない。                 (2017年4月6日)

 

                エル・グレコ作

 

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地の塩、世の光

 

 道に迷った時、あるいは今自分がどこに立っているのか分からない時、私たちにはスマホやアイフォンという便利な機器がある。自分から電波を発すると、衛星から立っている場所や目的地が示される。
 では、自分の存在する意味や自分が目標とすべきことが分からなくなった場合にはどうすればよいのだろうか。まず自分でじっくりと考えてみることが肝要である。でも、道に迷い、自分がどこに立っているのか分からなくなったときには、いくら考えてみたところでどうしようもないのと同じで、自分の人生のこともそうではないだろうか。

 

 聖書を開くと、例えば「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」(マタイ5:13〜14)というイエスの言葉がある。このように、イエスの教えはしばしば、「あなたは〜である」という具合に、断定するような調子である。「あなたは地の塩になりませんか」と勧めるのではなく、それを聞いた者が「私はそうだろうか」と問うことすらも無視するかのようである。でも、これは視点を変えると、私たちの存在の価値を認めていることではないだろうか。

 イエスの言葉はさらに続く。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と。自分で存在する意味や価値を問うことを無視するだけでなく、どこに向かい、何をなすべきかという問いさえも拒絶しているかのようである。

 

 このようないわば「押しつけや強制」とも思えるようなことを、なぜイエスは言われたのだろうか。こう問うと、それは人の意見や信条ではなく、神様の目線であることに落ち着く。それはどんな人も差別や区別されることなく、人のため、世のため、そして神様のために用いられるべき尊い命であるということである。それが「あなたがたはだれでも、地の塩である。世の光である」という断定の意味である。
 調理の際の塩のように、その姿は消えてしまい、人の目には気づかれない存在かも知れない。でも、美味しい味にはなくてはならない存在である。ある時には燭台のともし火のように、その存在が人々の目に見えるものでなければならないこともある。

 

 料理の味付けに大量の塩は必要ない。ともし火も小さなろうそくの炎のことである。その存在は決して大きなものではない。しかしそれは決して欠けてはならないものである。私たちひとり一人の存在もそうである。その小さな命もひとつも欠けてはならない。どんな人も、人のため、世のため、神様のために用いられるべき価値ある命である。イエスの教えの意味はここにある。     (2017年2月2日)

 

2016年

乙女マリアの信仰

 

 乙女マリア。イエス・キリスト以外のクリスマスの主人公のひとりである。なぜだろうか。神の子を宿したことは特別なことであり、それに相応し女性として選ばれたこと、このことだけでも主人公と言える人物なのかもしれない。
 ただ、受胎告知からクリスマスまでの福音書の物語を読む限り、他の女性たちより特別に才能を持った選ばれた女性としては描かれていない。血筋が良かったでもなく、見栄えが良かったのかどうかも一切記されていない。いわゆる普通の女性であったとしか言いようがない、それがマリアである。
 しかしこのマリアは後世、人々の記憶に留まる女性として名を馳せることになる。マリア自身が、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」という言葉を残したことが福音書に記されている。特別な才能を持った人であればまだしも、この普通の女性が、「幸いな者」として後世名を刻まれることになる。このことの意味は大きいと言えないだろうか。

 

 福音書には「マリアの賛歌」(ルカ1:46〜)と呼ばれる美しい詩がある。マリア自身の言葉である。その一節にこういう言葉がある。
  「身分の低い、この主のはしためにも、(神は)目を留めてくださった」
 この「身分の低い」という意味は、「無に等しいとか、見栄えがしない」という意味だと、宗教改革者のルターはある本で記しているが、ずいぶんと自分を蔑(さげす)んだことをマリアは言っている。さらに追い打ちをかけるように、自分を「はしため」とまで自虐的に貶(おとし)めている。「はしため」とは「端女」と書く。実に差別的ではないだろうか。なぜそこまで卑下するのか、と私たちには思えて来る。
 しかしこの賛歌は、もっと大きな思いが込められていたことが分かる。と言うのは、マリアは「主のはしため」だと歌っているからである。誰かと比べて「見栄えがしない」と言っているのでもない。友人や仲間と比較して、端の方に小さくなっているべき「端女」だといじけているのでもない。誰でも、主なる神様から見れば、もろく、弱く、欠点だらけの小さい存在に過ぎないことをマリアは認めているのである。それが人間というものであり、どんな立派で、有能で、ひとかどの者であっても、何も変わらないことをマリアは知り、自分もそのひとりであることを素直に告白したのである。

 

 そしてマリアの賛歌はそこで終わらず、もっとも大切なことに向かう。そのような「無に等しい、見栄えがしない」自分を、神様は見捨てることなく、通り過ぎることなく、「目を留めてくださった」と感謝するのである。その具体的なしるしが、自分の胎内に神のみ子が宿ったことであった。
 ただ、私はこう思う。確かにマリアに起こった出来事は特別なことであった。ゆえに、人はマリアを「選ばれた者」と特別視して来た。しかしそれは誤りだと思う。そうしないと、マリアが「普通の女」であったことの意味がない。少なくとも、聖書の真意はそこにはない。神様は「目をとめてくださる」ことには何ら差別はないからである。

 

 「目を留めてくださった」ことの結果はそれぞれに異なることであろう。しかし、どんな人にも、神様は目を留めてくださるのであり、たとえ人間の社会では無視され、見逃されてしまいがちなちっぽけな存在であろうとも、神様のまなざしはとてつもなく大きく、深いのであろう。

 とすれば、マリアの賛歌はマリアだけのものではない。誰もが唱えるべき神様への賛美であり、感謝でなければならないのではないだろうか。神の前には、だれもが小さく、普通の存在なのだから。                     (2016年12月20日)

 

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宗教改革記念日

 

 10月31日。我々ルーテル教会にとっては大切な日である。マルティン・ルターの宗教改革がこの日から始まったからである。
 そもそも「宗教改革」とはいったい何であろうか。この問いに、多少とも中学や高校の世界史の記憶のある人はこう答えることができるに違いない。ドイツ人のルターという人がカトリック教会に反対して、何かの公開質問状のようなものを教会の扉に貼り出し、そこからヨーロッパ中を巻き込んだ運動につながって行ったと。プロテスタント教会もここから誕生したという記憶を辿ることであろう。それは正しい世界史の記憶であるが、ただ、それは歴史の知識である。
 もっと大事な問いがあるように思う。それは「その宗教改革が私とどんな関係があるのか」ということである。日本に暮らす者にとっては、あのイエス・キリストと同様に、宗教改革は自分とは何の関係もないし、興味もないというのが正直なところであろう。
 確かに、500年前の出来事であり、遠いドイツの国の歴史である。今の自分にどんな関係があるのか、その問いの答えを見いだすことは難しいのかも知れない。でも、もう少し考えてみたい。

 

 ドイツに滞在していたときに、ルターのゆかりの地を(旧東ドイツ)何度か訪ねたことがあった。そのときに、ルターの様々な銅像を見ることがあった。「おや」と気づいたことがあった。多くの銅像が聖書を片手に抱え、その開いたある個所を指差しているのである。この意味は何か?
 私たちの目は自ずとルターの顔にまず向けられる。あるいはこう言えないだろうか。どうしても宗教改革者ルターの、その英雄的姿や生涯に意識が行くのではないだろうか。しかし銅像の右の人差し指は、聖書へと導くのである。つまり、ドイツ人ルターでも、500年前の歴史でもない。私たちが注視すべきことは、それを飛び越えたものでなければならないということではないだろうか。

 

 ルターの生涯の業績は確かにこれと合致する。ルターは生涯聖書をよく読み、それに親しんだ。ルターの残した著書の多くが、その聖書の解釈であり、そこから人の生きるべき道を訴えようとしたものである。そこに国境や民族の違いはない。真理、本当のことというものはそういうものであろう。時の隔たりも超えてる。
 とすれば、宗教改革とは私たちにとっても決して無関係のことではない。むしろ、真理や本当のことさえが混沌としているこの時代こそ、ルターが指さしたことは、じつに意義深いことであり、真理に満ちていたと言うべきではないだろう。  
                        (2016年10月31日)

 

             聖書を指さすルターの銅像

 

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自ら責任を負う方

 

  聖書のもっとも有名なたとえの一つに、「迷える羊のたとえ」がある。聖書を開いたことも教会に足を踏み入れたことのない人であっても、一度は耳にしたことのあるたとえではないだろうか。
 100匹の羊がいて、その中の1匹だけが道から反れ、迷い込んでしまった。それを心配した羊飼いは、99匹を山に残しでまでも1匹に羊を探し出すという話である。
 やや細かい話になるが、このたとえは聖書では(福音書の中に)二か所に出て来る。ところがその内容は全く同じではなく、少しずつ異なっている。一人の偉人の生涯を二人の作家が描けば、それぞれに異なった人物像になるのと似ている。二人の福音書の記者は、それぞれに異なった視点で話をまとめたからである。

 

 ではどう違うのか。一つの福音書は「迷い出た羊のたとえ」として描き、片方は「見失った羊のたとえ」とする。何が違うのか。前者では、羊自身が道に迷ったのである。いわば自己責任であり、羊自身に責任があるかのようである。後者は、羊飼いが見失ったと言うのである。ゆえに羊自身の責任ではなく、羊飼い自身に責任があるかのように響く。
 このたとえから何が学べるのであろうか。例えば、自己責任という言葉がある。どう生きるか、どんな仕事につき、それほど稼ぐが、すべて自己責任である。競争社会が浸透した日本社会でも、この言葉が市民権を得ているように感じられる。しかし、そう言い切ることができるのだろうかという疑問は消えない。人の道から反れ、人生に迷ってしまうことすらも、簡単に「自己責任だ」と言えるのだろうかと思う。

 

 日本でも「自己責任」という物差しが益々力を持って来るのかも知れない。しかしそれだけでは何かが足りず、ぎすぎすし、殺伐としたものしか感じられない。潤いのある、温かい物差しが入る余地がないといけないと思う。
 それは「自己責任、自己責任」という声ではなく、「あなたの責任ではなく、私の責任だよ」という声である。そもそも、自己責任ですべて成し遂げる人などどこにもいない。自己責任を強弁する人であっても、たまたま運よくここまでうまくやって来れたに過ぎないことが多いのではないだろうか。

 とすれば、私たちの過ちや失敗に対してもその責任を問うことなく、まるで「自分の目が行き届かなかったのだから、私の責任だよ」とばかりに、自分で責任を負ってくださる方の声を、誰もが求めているのではないだろうか。その羊飼いの声が聞こえる人には計り知れない安心があり、慰めがあり、そして幸いがある。   (2016年9月16日)

 

 

 渡辺貞夫の版画

 

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家族愛の落とし穴

 

 福音をグッドニューズ(good News)と呼ぶことがある。文字通り、喜びに満ちた知らせである。確かに聖書には、喜びや平安に満ちた教えがあり、幸いをもたらす福音の言葉がたくさん記されている。そういう箇所に出会うと、しっかりと目を留めて読みたいという思いが自ずと起こるものである。
 ところが逆に、戸惑いなしには読むことのできない箇所にぶつかることがある。そういうときには、快速電車がいくつかの駅を通り過ぎるかのように、読み飛ばしておこうという思いに駆られるものである。例えば、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」(ルカ14:26)というイエスの教えがそれに当たる。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われるイエスであるからこそ、むしろ「家族を愛しなさい」という教えであるべきはないか。この矛盾が戸惑いの理由である。

 

 ではこのような箇所にぶつかったときには、さっと読み飛ばすべきであろうか。確かにそういうこともおかしくないと私は思う。でも、こういう箇所だからこそそこに留まって、しっかりと読むべきところもある。デンマークのキルケゴールという思想家が、「信仰には躓き(つまずき)が必要だ」と言っているが、そこに通じることかも知れない。戸惑い、躓く。しかしそこに大きな意味がある。
 ただ、この教えはもう一つの福音書では、「わたしよりも父や母を愛する者は、…わたしよりも息子や娘を愛する者は…」という言い回しになっていることに注目したい。つまり「憎む」とは、「より少なく愛する」ということでもあることに。

 

 私たちのどこでも起こり得る家族愛についてここで考えてみよう。例えば、親が子供を「溺愛する」ということが起こる。子供にあまりにも多くの愛情を注ぎ過ぎて、その愛情の中で子供が溺れてしまうのである。子供の健全な成長に好ましいものでないことは言うまでもない。その溺愛の原因はどこにあるのか。一心不乱に、ただ我が子だけに目を注ぎ、周囲が見えなくなり、他に注ぐべき愛があることを見失ってしまったことである。
 このような溺愛というものから、自分自身も含め、誰もが無縁ではないのでなかろうか。ナルシストなる自己愛もこれと同様である。イエスの教えは、自分自身や自分の家族という偏りがちな愛情に警鐘を与えているのである。広く見れば、不健全なナショナリズム、国粋主義も同様であり、また他の宗教を否定する宗教原理主義と呼ばれるものをこれと同じである。これらに共通していることは、我が身内だけを溺愛することである。

 

 家族や自分を愛することはもちろん大切なことである。しかしそれだけに終わってはいけない。イエス・キリストは「あなたの神である主を愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)と言われた。身内の愛だけに偏らない健全な愛の教えがここにある。だからこそ私たちは、この方を何よりも愛し、この教えを何にも増して大切にすべきだと思う。      (2016年8月25日)

 

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身の丈の隣人愛

 

  聖書の中で一番有名なたとえ話と言えば「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10:25〜)を挙げる人が多かろう。こういう話である。ある人が旅の道中で強盗に襲われ、瀕死の状態になってしまった。そこを宗教家(当時のユダヤ教の祭司など)の二人が次々に通りかかったが、二人とも傷ついた旅人を助けるどころか、避けるかのように向こう側を通り過ぎてしまった。無慈悲というより、病気と思い、伝染病に汚染されることを怖れたのかもしれない。
 次に現れたのがサマリア人(当時はユダヤ人と仲が悪かった)であった。彼はその人を見ると憐れに思い、すぐに手当てを始めたのである。手持ちのぶどう酒と油を注ぎ、包帯をして自分のロバに乗せ、宿屋まで運び、出来る限りの介抱をした。翌日は銀貨二枚(銀貨1枚が当時の一日の労働賃金)を宿屋の主人に渡し、介抱を頼んだ後に仕事に向かったのである。
 このたとえ話から、イエスは「わたしの隣人とはだれか」と尋ねた人に答えを与えたのであった。

 

 このたとえ話を聞いた小学生が、後に医者となり、遠いネパールの地まで出かけて、地域医療のために18年間もの間身を献げた人の話を耳にしたことがある。人の生き方を左右するほどの優れたたとえ話と言えよう。
 ただ、このたとえ話はもう一面を含んでいる。それは、いわば「小さな親切」とか「身の丈に合った隣人愛」とでも言うべきことである。

 

 サマリア人は手元にぶどう酒だけでなく、油(当時の治療薬)や包帯(布切れ)までも持っていたところを見ると、行商人であったのかもしれない。油や包帯を買いに走ったのでなく、持ち合わせたもので対応したのである。次に病人をロバに乗せ、宿屋へと向かった。多分そこに泊まることになっていたのであろう。そして介抱したのだが、きっと「一睡もしないで」ということではないだろう。翌日彼は仕事を休むことなく、行商へと向かったのである。宿屋の主人に渡したお金はそれなりの金額ではあるが、サマリア人にとっては大金と言うほどの金額ではなかったのだと思う。手持ちの中から、自分に無理なくできる範囲のお金だったのではないだろうか。
 このように考えると、サマリア人の善行は「いとも簡単に」とは言えないにしても、決して大袈裟なことではなかったことが分かる。そこが重要なのではないだろうか。「身の丈の隣人愛」とは、自分のできる範囲のことを隣人のために精一杯することである。自分の仕事の手を止め、人生を犠牲にするほどの行為ではないし、持ち金をすべて献げるということでもない。かといって、「暇だから手を貸してやった」とか、「ポケットの中の小銭を恵んでやった」ということでもない。要は、助けを本当に必要としている隣人(見知らぬ人も含め)に出会ったときに、自分にできることを誠実に、そして極端な無理をすることなく手を差し出すことであろう。重要なことは、困り果てている人を気の毒に思い、自分にできる小さな親切を確実に行うことである。

 

 イエスのたとえは、「わたしの隣人とはだれか」という問いに答えただけでなく、もう一歩進んで、隣人に「なる」ことの大切さを強調されたのであった。具体的に「手を差し伸べる」という行いの大切さを教えられたのである。私たちも身の丈に合った隣人愛を、少しでも行いたいと思う。      (2016年7月21日)

 

       フィンセント・ファン・ゴッホ 「善きサマリア人」

 

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恵みの雨

 

 雨の季節、梅雨を快く感じる人は少ないことであろう。洗濯物を日に当てることはできないし、外出するにも服がぬれ、部屋中が湿っぽく、うっとうしく感じてしまう。しかし、雨が降らないとたちまち水不足になり、自然界の生き物も梅雨の雨無しには窮するに違いない。災害をもたらす豪雨は困るが、やはり今は「恵みの雨」の季節である。
 イエスが雨を譬えられた言葉を思い出した。「父は(神様は)悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)という言葉である。確かに、お日様も雨もどんな人にも分け隔てなく注がれている。日照時間や雨量は国ごとに異なったとしても、そこに暮らす人々の間では何の差別もなく、たとえ悪人であっても「恵みの雨」が天から降って来ると言われたのである。

 

 見方を変えれば、私たちの社会、日々の生活で起こっていることへの問いかけとも言えよう。この世や社会には差別があり、不公平が支配している。それどころか、持って生まれた才能や天分とでも言うべきものにも明らかに個人差があり、能力差があることを認めざるを得ない。これがこの世に暮らす私たちの目線から見えていることである。
 でも天の目線、神様の目線からみればきっと異なるのであろう。ふもとから見る富士山と、頂上から見た下界の風景が全く違うのと同じである。ここで譬えらえた「太陽と雨」は、神様の愛のことであり、イエスが注がれた慈しみであったのだと思う。この世の目線では天分に恵まれた人のことを特別に「寵児」とか「寵愛を受けた人」という言い方をするが、イエスの教えでは、すべての人が神様からの寵愛を受けているというのである。イエスの教え、そのご生涯はこのことを証しであった。神様の愛には偏愛はない。

 

 ただ、この世の視点でしか生きていない私たちには、イエスの教えは戸惑いを与え、単なる理想論にしか聞こえないものである。確かにそうかも知れない。でも、どちらが本当に正しいのか、どちらが生きる希望を与え、励ましを与えてくれるのかとしばし立ち止まって考えるならば、その答えは明らかでなかろうか。

 恵みの雨から神様の愛を覚え、自分にも注がれているイエスの慈しみに満ちた眼差しを思い起こす者でありたいと思う。教会に植えられた花、ぶどうの実は分け隔てなく天から降り注がれる雨と太陽の光を浴びて、日増しに成長し、そして実りの秋を迎える。私たちの人生もそうでありたいと思う。                        (2016年6月9日)

 

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言葉の回復

 

 言葉の回復。それは言葉の本来あるべきところに立ち返るという意味である。
 私たちが生きている現代は、言葉が溢れている時代だと言われる。インターネットなどがその代表である。世界中の膨大な情報がいつでも、手軽に入手できる便利な時代である。でも他面、情報の渦に飲み込まれそうな時代だと私は思う。
 この現代社会を生き抜くためには、人よりも有益な情報を入手し、しかもより早く、たくさんの情報を処理しなければならない。情報をうまく使える者が勝ち抜くのである。これがこの世の現実であろう。しかし、それによって人の心や魂が疲弊し、摩耗してしまっているのも事実であろう。結果、言葉が乱暴になり、人を傷つけ、攻撃するために用いられていないだろうか。言葉や情報が乱用され、誤用されているのである。
 言葉の回復とは、本来あるべき言葉を思い起こし、そこに立ち返ろうとすることである。

 

 では言葉のどこに立ち返るのか。聖書に「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった」(ヨハネ1:1)と書いてあることに気づく。言葉の原点、つまり、言葉の返るべきところがここに示されていないだろうか。それは「神と共にある言葉」であり、少し表現を変えれば「神のもとにある言葉」である。
 私たちは言葉や情報は、「いかに大量の情報を、いかに早く送信できるか」という具合に、限りない未来の方へ目が向かいがちである。それも重要なことではあろう。でもそれだけに目を奪われていると、本来大切にすべき人の心や魂までもどこかへ連れ去れてしまうのではないだろうか。

 

 そうではない。言葉の始まり、言葉の原点、本来あるべき言葉を忘れてはいけいのである。それは神と共にある言葉、神のもとにある言葉。つまり、神の言葉である。人の言葉の前に、神の言葉を大切にしなければならない。

 

 イエスは人生を譬えてこう言われた。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ7:24)。言葉や情報が吹き荒れても、自分が立っている土台がしっかりしていれば大丈夫だと教えられたのである。その土台とは言うまでもなく、神の言葉であり、聖書の言葉であり、イエスの言葉であろう。            (2016年5月20日)

 

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桜が散り終えた後に

 

 桜の季節も終わりを迎えつつある。初めて目黒川沿いの桜並木を歩いたが、実に見事なものであった。桜といえば、短歌や俳句に心を躍らせたいところであったが、こちらに歌心なく、観賞することのみを楽しんだ。
 古から桜を題材にした歌人たちの詩歌が残っているが、桜の美しさもさることながら、むしろ花びらの散る様を詠む歌が多いと聞いたことがある。短い開花の時間を経て、瞬く間に散り終えて行く様から、この世のはかなさや、もののあわれというものを感じ取ったのであろう。

 

 イエス・キリストのご生涯もこれに重ね合わせることができるのかも知れない。神の国の教えを説く働きはわずか3年ほどであった。この世の生涯を終えたときは30過ぎである。あっという間のご生涯であり、短く咲いて散り終える桜のはなびらになぞらえることができるように思う。そして残された者たちは、十字架の上で散り行く主イエスの姿を眺めながら、歌人たちと同様に、この世のはかなさやもののあわれをきっと感じたに違いない。

 

 でも、イエスのご生涯はそこで終わらなかった。いや、むしろその後の出来事こそが重要なことであったと、福音書の記者たちは記している。そう、復活である。十字架の上で散り終えたはずのイエスが、死からよみがえったという知らせである。
 散り終えた桜を見つめるならば、桜の生涯が終わったのではなく、新緑が芽吹き始め、新しい生命が躍動していることに気づくではないか。この世のはかなさやもののあわれではなく、むしろ新しい生命の誕生を想起し、生命の息吹を感じる瞬間である。そこには未来への希望である。
 きっと主イエスの復活もこれと同じであろう。たとえこの世のことははかなく、理不尽であること多く、また不安や恐れが満ちていたとしても、しかしイエスの復活を信じる者には、この世のはかなさに埋没しないものが与えられるのだと思う。それは平安であり、慰めであり、新しい生命の躍動であり、そして日々の歩みへの希望である。
 新緑の春を迎えたが、教会の暦はまだしばらく復活節が続く。復活の喜びを心に刻む時を祈りたい。                (2016年4月15日)

 

 

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復活の話を「信頼する」

 

 イエス・キリストの復活。十字架につけられ、そこで息を引き取られたイエスが、三日目の朝、死からよみがえり、新しい生命へと復活された、これがキリスト教の復活のことである。
 それにしても荒唐無稽の話である。ゆえに、これがキリスト教のネックとなり、アキレス腱にもなっていると言えるのかもしれない。事実、クリスマスは日本でも抵抗なく祝われているが、イースターとなると、「それは…」というのが実態であろう。高校時代の倫理社会の先生が、「イエスの教えは分からんでもないけど、復活の話になるとどうもね…」と言われたことが記憶に残っているが、それが常識的な復活への印象なのだろう。

 

  正直、私も復活の事実を100パーセント信じているのではない。その出来事を見たのでもないし、確かめたのでもないからである。そもそも2000年前に起こった出来事はだれにも確かめようがない。とすれば、何を根拠に、何を証拠に復活の出来事を受け入れればよいのだろうか。
  それは信仰である。いや、むしろ「信頼」と言うべきかもしれない。なぜなら、復活の事実を確かめようがないのであれば、その事実を見た人の言葉や証言を信頼するしかないからである。
  例えば、このような例で説明できないだろうか。道に迷ったとしよう。今はスマホなどで自分の居場所確かめることができるが、それがないとしよう。もし道行く人がいるならば、信頼できそうな人を選んで尋ねないだろうか。不確かなことを確認するためには、「この人の言うことなら信頼できそうだ」と、どこかで判断しているはずである。でもよく考えると、私たちはいつもどこかで、その人が信頼できる人かどうかを判断しながら、他者との距離間を測っているはずである。「人はどう生きるべきか」、「どんな道を選べばよいのだろうか」、つまり人生の問題をだれかに尋ねるとなると、なお更であろう。

 

  実は、聖書の復活の話にもこれと同じことが書いてある。イエスの復活を最初に知ったのは女性たちであったが、その話を耳にした弟子たちさえも最初は「たわ言」のように思われ、それを信じなかったのである。唯一ペトロだけがそのことを信じたのである(それは完全なものではなかったにしても)。ペトロは後に復活されたイエスと出会うことになるが、その時には、復活の出来事を確かめることはできなかったにもかかわらず、女性たちのことを信頼したのである。
  私たちの信仰もこれと同じである。復活というあり得ないこと、科学や理性では証明できないことを信じるのは「ばかばかしい」と言われれば、確かにその通りであろう。でも科学や理性で説明できないことがこの世には満ちており、しかもそれらの存在なしには私たちは生きることはできない。
  キリスト教は2000年の歴史を刻んで来た。過ちの歴史があり、不完全なものであったとしても、しかしある意味の信頼を築いて来たと思う。そこに連なる人たちが長年、復活の出来事を語り継いで来たのである。そして私たちが一番考えなければならないことは、復活を信じる人の生き方がどのような意味を持ち、そして力を持って来たのかということである。
  私自身は、復活を語りつないで来た歴史の証人たちの声を信頼し、それを励みとし、力とする生き方を選びたいと思う。        (2016年3月30日)

 

             復活を表す聖壇の百合の花

 

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生きているつもりが、死んでいないか?

 

 福音書にはイエスが語られたたくさんの譬えがあるが、その中でも有名なものが「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」(ルカ福音書15:11〜)である。ある金持ちの息子が、父親から受け継ぐことになっている財産を前もってもらい、遠い地に旅立ち、そのお金を湯水のように無駄遣いしてしまうのである。贅沢三昧の生活は長続きせず、たちまちすっからかんになってしまう。そこでようやく目が覚め、我に返るのである。恥を承知で父親の下に帰り、雇人として置いてもらうように頼み込むである。ところが、父親は息子の帰還を拒絶するどころか、祝宴まで開いて喜ぶという話である。この父親とは神様であることは明らかである。

 

 この譬えには、弟の帰還を父親と一緒に喜べないもう一人の息子(放蕩息子の兄)が登場し、むしろこの兄がこの譬えの主人公にさえ思えるが、ここではそれは触れないでおこう。それ以上に目に留まるのが、息子の帰還を喜んだ父親のこの言葉である。
 「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」

 

 息子はふしだらな生活をしていたとはいえ、ずっと生きていたはずであるが、それをイエスは「死んでいた」と言われるのである。これが聖書の人間理解である。私たちの日常では、「死んだ」と言えば心臓や脳の活動が停止することであり、この世の生涯を閉じることであるが、しかし聖書ではそうではない。
 むしろ、「自分は毎日楽しく過ごしており、人生をおう歌している」とか、「自分の金で贅沢三昧の暮らしをして何が悪い」という時ほど怪しいのである。無論、人生を楽しむこと自体を否定しているのではない。神様に背を向け(背信)、自分の世界だけで生きてしまっていることへの戒めである。それでは本当に生きていないのである。

 

 放蕩息子が改心するきっかになったのは、「我に返った」ことであった。とすれば、放蕩の限りをつくして生きている毎日は、本来の自分が失われ、別の自分が大きく肥大化した状態にあったということであろう。
 私たちの日常を振り返るならば、どれほど本来の自分を生きているか、意外に怪しいものだと思う。「自分の人生を楽しく生きて何が悪い」と、今の自分の生活を満喫することだけに集中し、それだけに終わっているときほど、実は怪しいのかも知れない。

 

  本来の自分の姿を回復し、本当の自分らしい生き方をするためには、神様に背を向けることをやめ、神様の方に顔を向けて生きるべきではないか。

 自然界の草花に目を向けてみよう。どれも太陽の方に顔を向けて生きているのではないだろうか。           (2016年3月8日)

 

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十字架を覚えるとき

 

 教会の暦は四旬節に入った。イースターの3月27日までの40日間、イエス・キリストの十字架を覚える期間となる。それは、主イエスが体験されたご苦悩やご苦難を、少しでも、我がこととして追体験することを意味している。

 教会の伝統的な教えでは、その最初の追体験とは、主イエスが悪魔の誘惑に会われたことに目を向けることである。ユダヤの荒野に40日間連れて行かれ、三つの巧妙な誘惑に会われたことが福音書には記されている(マタイ4:1〜、ルカ4:1〜)。イエスはその誘惑を退け、それから神の国の教えを説かれる旅を始められたのである。

 

 その出来事を追体験する? はっきり言って無理である。悪魔の誘惑をことごとく退けるなど、小人には不可能だと私は思う。巷では、様々な誘惑に負けてしまい、人生の転落を味わう気の毒な有名人のうわさに事欠かないが、それはかなり極端なことであったとしても、この世には様々な誘惑が満ちており、小人はそれに負けてしまうこと大である。小さなことから言えば、つい、無駄遣いしてしまうことがある。やるべきことをやらず、怠けてしまうこともある。自分自身の嘘や不正から無縁であった人はいないはずである。いやむしろ、「自分は大丈夫だ」と、悪魔の誘惑など無縁であるかのように考えてしまっているその不遜さの中にこそ、悪魔は巧みに忍び寄り、ほくそ笑んでいるに違いない。

 

 悪魔がイエスを誘惑しようとしたことは、実は、我々が勝手に考えてしまっているその誘惑とは少し異なっている。それは信仰に関する誘惑だったからである。悪魔は何とかして、イエスから神への信頼を奪い取ろうと必死になった。端から信仰など関心なく、「俺には神など必要ない」とうそぶいている人を悪魔は誘惑などしない。その人はもう悪魔の支配の中に取り込まれてしまっている、酷な言い方であるが、それが聖書の冷静な見方である。

 

 さて、小人は悪魔の前にまったくお手上げ状態で終わるのだろうか。そうではない。確かに小人の力は弱々しく貧弱であるが、だからこそ、力を借りるのである。聖書には「神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:11)という言葉があり、「霊と剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(同6:17)という勧めがある。確かに主イエスも神の言葉を取って悪魔を退けられたのである。
 私たちはなおさらのこと、神の言葉に学び、それをしっかりと身に着けなければならないと思う。そのための四旬節を送りたいものである。 
                          (2016年2月17日)

 

 

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