そ れ ぞ れ の 証 し

 

 都南教会にはたくさんの信徒がいます。教会の恵み深いことは、幼子(嬰児から)からお年寄りまでの幅広い信徒がいることです。3世代、4世代にわたって、一同が会し、礼拝する群れは珍しいことです。そして教会の門をくぐれば、みんなが等しく神に愛された「神の子」であって、それぞれの命の価値は等しいのです。
 このコーナーでは、信仰を共にする信徒の声(教会ではこの声を「証し」と言います)をお届けします。

2020年

アジアの教会1 −カンボジア−

 

 2006年に私たちは福岡からカンボジアに引っ越し、首都プノンペンに5年間住んでいました。クメール語が全く分からなかったため、私たちは英語の教会を探し、インターナショナル・クリスチャン・フェローシップ(ICF)という国際的な教会に出席し始めました。ICFでの主日礼拝は朝と午後の二つがあり、どちらも英語です。朝の礼拝には非政府組織(NGO)で働いていた方が多く、午後の礼拝には他の教会で奉仕している宣教師たちも出席します。このような国際的な環境の中、多様な文化と習慣から共同体を作るのは時に難しいですが、世界の各地の信徒たちと共に礼拝を守るのは、神の国のような気持ちもあります。
 カンボジアには伝統的な教会堂はほとんどありません。最初にICFを訪れた際、主日礼拝はホテルの会議室にて催されました。後になって、韓国宣教師団体から普通の建物の二階にある礼拝堂を借りることができました。その建物の1ブロック先には有名なクメール・ルージュ政権時代の刑務所がありました。NGOで働く信徒たちは様々な行動、特に人権を守ったり、搾取と戦ったりします。ICF教会員もその行動を支援したいので、教会の祈りにはNGOの働きがよく含まれています。時に抗議なども支援しますが、カンボジアの政府は国際影響には疑心があるから、教会の指導者は十分に気をつける必要があります。
 カンボジアでは、首都プノンペンとそれ以外のキリスト教会の形は大いに違います。実際のところ、私たちはカンボジアの田舎の教会との直接経験は多くありませんでした。私たちは1990年代にカリフォルニアの母教会でカンボジアからの難民のためのミニストリーに参加しました。指導者のカンボジア人の弟はカンボジアの田舎で牧師をしていました。プノンペンへ引越しすると分かった際、彼の教会を手伝う素晴らしい機会だと思いましたが、カンボジアの交通機関は発達が不十分であり、その教会に行くには5、6時間もかかる状態でした。結局のところ、一度しかその教会を訪ねることはできませんでした。それでもなお、田舎の教会の状態を少し理解できたように思います。
 クメール・ルージュ政権下で行われた集団殺害の影響で、中年者の人口はわずかです。その結果、田舎の教会員はほとんどが老人と若者です。地方の教会と学校とは密接につながっています。それは、田舎におけるワット(カンボジアの仏教寺院のこと)と同じです。ワットも教会も近隣住民の生活の支柱となっています。このような環境下において、教会にも、牧師にも依存するところが大きいです。皆はなかなか大変な状況にありますが、彼らの賑やかな礼拝には未来への希望が見えると思います。  (A.E)

 

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心にひびく讃美歌

 

 私がポーランドという東ヨーロッパの国を知ったのは1976〜1977年、ワルシャワ大学に主人が外人教師として勤務したからです。カトリック国ポーランドでもルーテル教会があることを石田順朗先生からお聞きして不安はありませんでしたが、ワルシャワのルーテル教会はなかなか見つかりませんでした。カトリック当局によりワルシャワではプロテスタント教会には高い鐘楼をもつ教会堂の建築が許可されなかったため、音楽堂のように見える円形ドーム型の建物がルーテル教会だとは初め気が付きませんでした。後になってドームの扉に「アウグスブルク信仰告白・聖三位一体教会」とポーランド語で書かれた小さな貼り紙を発見した時の喜びは忘れられません。
 会堂に入ると日本と同じ式文形式、荘厳なパイプオルガンの奏楽と牧師先生の美声の司式によって進められる礼拝に心が安らぎ、その日から教会を中心とする私たちのワルシャワ生活が始まりました。
 讃美歌は、ポーランド語の歌詞は読めなくてもメロディーが同じであったので、私は平気で声高らかに日本語で讃美歌を歌いました。すると礼拝に列なっていたポーランドの人々が、同じ信仰をもつ者とし私たちを認めて信頼してくださり、この国で多くの親しい友を得ることができました。最も親しくなったエヴァさんはワルシャワのルーテル教会事務局に勤務する女性で、彼女のお兄さんとその息子さんは共にルーテル教会の牧師でした。お兄さんのオテロ先生はワルシャワ北方のマズーリ地方のニジツァの教区教会の牧師。そこでの宣教・牧会25周年を記念する礼拝に参加する機を得ました。
 その日、ニジツァ教会で主人は日本の教会の話をし、私は日本語で讃美歌を歌い、記念礼拝に少しばかり奉仕しました。礼拝後の親睦会で私は讃美歌「ナザレのふせやに」(272、教会讃美歌346)「主イエスのみ名こそ」(教会讃美歌336)「たよりまつるわが主よ」(教会讃美歌374)などを若い牧師オテロ先生のピアノと教会員のギターの伴奏によって歌い、また新たに覚えたポーランドの讃美歌を教会員と声を合わせて歌って心が一つになった感動を覚えました。そのさい老オテロ先生が首にかけていたルターの紋章をはずして「桜の花咲く国から訪れたトモコへ 国は異なってもルーテル教会員同士の連帯感と友情を普及するための証明としてルターの薔薇をささげる」と記した証書を添えて私にくださいました。このルター紋章の薔薇のペンダントは私の唯一の宝です。

 当時ポーランドはソ連型社会主義の暗い冬の時代でしたが、ポーランドのルーテル教会の讃美歌は私の心に深く刻まれました。  (T.K)

 

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私にとっての教会

 

 私の教会の最初の記憶は、幼稚園の聖誕劇で皆で、ルカ福音書2章8〜14節を暗唱したことです。引越して入園したため、一年も通わなかった幼稚園でしたが、今でも大切な思い出として残っています。そして、教会学校に通ったこと、楽しみの夏のキャンプ。時は過ぎ、大学での牧師館で育った友人達との出会い、学内でのチャペルアワーに通ったこと…教会は手に届きそうで届かない存在だったように思います。
 本当の出会いは、娘達二人が幼稚会にお世話になったこと。そして町野洋先生のお導きによって、教会から遠ざかっていた私の両親が教会生活を送るようになり、私も教会に近づくことができました。
 その後受洗を許されてから、二十年余の時が過ぎました。そして日曜日に礼拝に出席して町野先生のお話しを聞く、その時間だけで十分のような気持ちでいました。
 でも、「聖書を読む会」に参加するようになり、色々なことを感じ、考えるようになりました。そんな中、昨年、クリスチャンの学生時代の友人が、戻る教会が見つからないままに、亡くなりました。当然とはいえ、教会でのお別れはなく、後になってある友人達によって、教会でお別れの会をすることができましたが、友人にとっての教会、私にとっての教会とは…と思い巡らしています。
 今の私には答えは出ていません。ただ、友人は戻れなかったけれど、私は都南教会に導いていただくことができたということに感謝しています。
 色々なことに欲張って手を出して生活していますが、これからも教会生活を続けられることを願っています。  (K.H)

 

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私と教会

 

 私は1968年(昭和43年)4月にこの下馬で生まれ、クリスチャンの両親のもとで育てられました。両親が通っていた都南ルーテル教会で幼児洗礼を田坂惇巳牧師から受け、その時から私の教会生活がスタートしました。生まれたのはイースターの日であったため、イエスの「安かれ」の言葉から、牧師であった祖父から泰と名付けられたそうです。讃美歌465「やすしやすし」が礼拝で歌われるときは、可笑しさで歌えずにおります。
 幼少の頃は、毎日のようにM先生のお宅にお邪魔させていただきました。その時の楽しかった思い出は今でも掛けがえのない宝物です。日曜日は当たり前のように教会学校、聖日礼拝に出席し、午後も教会で過ごしておりました。日曜日の教会は我が家のようなものでした。また、教会員の方々は家族でした。今でも教会に行くと小学生になったような気持ちになります。
 教会学校での一番の楽しみは夏期キャンプでした。子供も大人も一緒に、箱根、伊豆、軽井沢等多くの場所に泊りがけで行き、キャンプファイヤー、ハイキング、もちろん神様の学び、全てが良い思い出です。その思いは教師になっても変わらず、特に息子を連れての参加は格別なものでした。
 中高生時代では部活で多忙となり、教会は休みがちになりましたが、青年会の大学生との交流が楽しく時間が許す限り出席していました。このころ町野洋牧師より堅信式を行っていただきました。大学生になると、教会学校の教師を迷うことなくお受けしました。最初担当した分級は小学下級クラスで、その中にはTくん、Mさん等がいました。今でも自慢の生徒たちです。20歳台では、朝帰りの後そのまま教えたこともありましたが、反省していますので時効とさせてください。
 30歳のとき、新しくなったばかりの教会で太田一彦牧師の司式により妻Nと結婚式を行い、その後二人の息子に恵まれました。今では大学生と高校生となり二人ともアメリカンフットボールに熱中しています(熱中しているのは私かもしれません)。最近は家族揃って教会に行くことが少なくなりましたが、小さい頃、イースター、クリスマスの祝会でピアノ演奏や日本舞踏を披露したのもよい思い出です。
 ここ数年、私生活を優先してしまい教会から足が遠のいております。遠のいているからなのか、当たり前のように教会に通っていた時よりも、神様への感謝と懺悔の祈りの機会が多くなったような気がしています。現在は教会学校でお説教の奉仕をさせていただいており、4月からは分級も微力ながら担当させていただくことになりました。
 今回、原稿を書くにあたり、教会は常に自分の生活の一部であったと改めて認識することができました。神様、家族、教会に感謝しながら、残りの教会人生を過ごしたいと思います。  (Y.S)

2019年

教会と私

 

 私の父は日本福音ルーテル長崎教会の牧師でしたので、私にとって「教会がわが家」でした。当時日曜学校(教会学校)では幼児・小学生・中学生と分かれ、いつも賑やかでした。クリスマスの早朝、教会員の家々をめぐって歌ったクリスマスキャロル。夏は阿蘇山荘での修養会やキャンプファイアー。日曜学校の生徒たちと登った稲佐山や眼下に広がる海が今も鮮やかに蘇ってきます。
 やがて大人の礼拝に出るようになり始めて、各自の信仰を厳しく問い直されることとなり、日曜日ごとの説教に衝撃を受けました。「十字架にイエスさまをつけたのは罪の中に死ぬより仕方のない人間の罪であり、その罪はイエスさまと共に死んだのである。それゆえに神さまからの赦しとイエスさまのご復活を通して示される恵み、与えられる永遠の生命の喜びを思い、みずからをさし出す勇気に変えなさい」。礼拝が終わると声にはならない安堵の空気が広がったような。長崎教会では信頼しつつも抵抗しながら「いと小さき者の隣人」を学んできたと思います。そしてのちに、長崎教会を出発点(あるいは通過点)として、全国の教会でそれぞれ核となる働きをなさっている教会員(求道者)の方々と父との深い信頼関係を、私に引き継いでもらった喜びの大きさを知ることになる。信仰の友であるみなさまにいまだに力を頂いている長崎教会は私の「父なる教会」でした。
 上京後、都南教会で初めて田坂先生にお会いした印象は「娘の理想の父」像そのものでした。先生の大家族に包まれて、穏やかに過ごさせていただいたこと、有難く思い出されます。1976年、田坂先生に結婚式を挙げていただきました。夫の転勤のため東京を離れた時期もありましたが、神さまにたぐり寄せられ幾度も戻ってこられた幸せを思います。
 T先生が赴任され教会に大きなエネルギーを感じていた頃、初めて自分の教籍について考える機会が与えられました。そして2015年のクリスマスにN兄、I夫妻と共に転入し、都南教会は「母なる教会」になりました。
 水曜日夜の聖書を読む会では毎回新しい発見があり、初めて教会の門を叩く求道者のような気持ちで過ごしています。神さまがご用意くださったこの場所で共に祈り、求め、歩んでいきたいと思っています。

 

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人にとって言葉は人生の栄養素

 

 JELA NEWS 第49号の編集後記でJELA渡辺薫事務局長が、コリントの信徒への手紙一、10章13節について、「人が苦難にあう時、神はその人以上に苦しみながら、それが起こることを許容されるのです。なぜなら、聖書によれば、神はその人が乗り越えられないような苦難を決して与えないし、苦難を乗り越えた時の姿をすでにその人の中に見いだしておられるからです。苦難は試練という神からのプレゼントでもあるのです」と記されています。それを拝見して「なるほど」と思った2−3日後、一般の婦人雑誌の中に以下のような記述がありました。長いですが引用します。

 

 あなたは、たった一言で救われたという経験があるだろうか?どんなアンケートでも必ず複数の人が挙げてくる言葉があるという。それが「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉。どこから来た言葉だろうと思ったら、なんと聖書の引用から来た言葉であった。
 この一言に救われたという人は、おそらく一人ひとりが違った救われ方をしているのだろう。

 

 「なんと聖書の引用」と書かれているように宗教系の書物ではなく一般の婦人雑誌です。このエッセイのタイトルは「人にとって言葉は人生の栄養素」でした。
 聖書に書かれている言葉によって、励ましを受けることは多々であり、あらためて言葉の重みを認めました。また、タイミングによっても神様の啓示を感じざるを得、驚きさえ感じました。 (S.K)

 

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悔いの残る我が人生

 

 物心ついたとき、父は水俣教会の牧師でした。戦時中で米軍の爆撃が激しくなり牧師をやめ岡山の田舎に帰り百姓をやっていました。そこで小学校/中学校を終えたのですが教会本部から牧師復帰の要請があり広島の西条で宣教師のオルソン夫妻と開拓伝道を始めました。
 私はそこで1956年(昭和31年)に高校を卒業しました。卒業後、鷺宮の神学校に入学も牧師の器でないと悟り一学期で退学。翌年、英語が好きで英語を使う仕事に就きたいと京都のある大学の英文学科を第一志望で受験するも不合格で第二志望の心理学科に入学。ESS(英会話部)に入るも先輩といざこざがあり退部。心理学には興味が持てず三年次に法学部に転部。あまり勉学に身が入らず麻雀で明け暮れました。
 在学中の一時期、修学院の伝道所(二階建ての民家)に寄宿。ここの牧師が私より2〜3歳年上の若き小泉 潤先生でした。気さくで何事にも熱心で牧師と言うより我々の兄貴分でした。一階が牧師の書斎/寝室、集会室、台所、二階の6部屋に学生が寄宿。ここでは週1回食事当番が回ってきて私はいつも豚汁でした。京都教会の近くの学生センターには他大学の学生も集まりアンスパック宣教師のバイブルクラス、卓球等々があり楽しいひと時を持つことができました。卒業後は外資系の事務機器の会社に就職し大阪営業所に配属。仕事は飛び込みの営業でしたが成績が上がらず首の宣告。同期の仲間たちが東京本社に抗議に行けと応援してくれ、人事部で簡単なテストの後本社の貿易関係の部署に配属されました。本社ではいろいろな部署で仕事をしながら定年で退職。東京では神学校で父と同期の田坂 惇巳牧師のこの教会に出席するようになりました。結婚後はクリスチャンではなかった家内が洗礼を受け一緒に教会に通うようになり喜んでいます。
 私はこの世のことばかりに心を奪われ神様とイエスキリストのことを忘れる罪深い者ですがキリストの十字架上での死と復活、永遠の命を信じています。しかし、罪深い私が天国に行けるか分かりません。今、こうして生かされていることは感謝です。好きな聖句:いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(テサロニケの信徒への手紙第一の5:16)。

 今になって大切な学生時代を勉強もせず無駄に過ごしたことを後悔/反省しています。罪滅ぼしではありませんが退職後は世田谷区に登録し今も視覚障害者の外出介助の仕事をしています。  (T.S)

 

 

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教会と私

 

 わたしは二つのキリスト教の教会を知っています。一つ目の教会は、両親に連れられて行っていた教会です。その教会では両親が結婚式を挙げていて、私は献児式と洗礼式(全身浴)と結婚式をさせて頂きました。幼い頃の記憶では大人に抱きかかえられて最上階の窓から巣鴨拘置所の塀の中を眺めるのがとても好きだったことです。しかし、その当時からいた仲間たちは今ではだれも居なくなって終いました。都会型の教会の宿命なのか?時代なのか?
 二つ目の教会は、かつて私が通っていた幼稚園を経営していた教会で、私の一番のお気に入りのルーテル都南教会です。わたしは数年前、母教会と問題を抱えてしまいました、それはその当時の私にとっては家族の名誉を著しく左右する問題だったのです。
 教会に行けなくなった私は、次第に毎週礼拝することの意味を思い知るようになりました。それは渇きを感じ始めた”からです。それまでは不平不満を言いつつも礼拝を守る事で、自分の信仰心の充実やクリスチャンのアイデンティティを満たしていたと思っています。しかし、自分の好き嫌いや御都合主義で礼拝を持たなくなった時、私は激しく渇き始めました。
 主は私に、良き学びの時間を与えてくださいました。渇きを満たす為にいろいろと勉強しました。でもそれはただあがいて居ただけであまり意味はなかったと思います。ただ主が私に気付きを与えて下さった事で、それまで見えていないものに気付く事が出来たからです。(エタファって言ってもらえたかも?)私は長い間、永遠の命はキリストを信じて洗礼を受けて奉仕と献金をしないと与えられない!と信じてきました。「キリスト or die 」それだと、生きているうちに「キリストは私のメシア」と信じれば天国行で、「バカみたい、知らない」とほっとけば地獄行き、と受け取れます。
 わたしは、ヨハネによる福音書3:16が気になって仕方がなくなりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書いています。この一節を私は御都合主義に解釈しています。わたしはヨナ書が大好きですが!このヨハネの一節は捨て置けない!「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」となっているが?神は、マジで私たちを愛している。信じたら天国とか?信じなければ地獄とか?そんなショボい話じゃないんだ!!無限の愛と恵みを私たちに差別なく与えて下さる神が、イエスを信じている人だけにしか永遠の命を与えないなんて、神の愛はそんなにチッポケなはずがない!と思っています。
 イエスが十字架に架かって私たちの罪を贖って行かれた以上、全ての人は(すでに死を経験している人全て)既に赦されて永遠の命を得ているのではないでしょうか?
では、教会に行かなくてもいい?礼拝に参加しなくてもいいの?でしょうか?
 ヨナ書では神は自分の作られたものを大変愛されておられるが、ヨナとの対話も尊重している。
 この関係性は今の私たちに繋がる話だと思う。私たちは礼拝を通して神と対話し教会の外の仲間たちのとりなしをし、共に礼拝することを願い祈り続けることが、私たちに与えられたミッションではないだろうか?と思っています。 アーメンハレルヤ  (M.I)

 

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私にとっての十字架

 

 私が初めてキリスト教に出会ったのは、終戦の翌年、京都の同志社女学校に入学した時である。毎朝のパイプオルガンによる礼拝で美しい讃美歌のメロディーと初めて聞く聖書のみ言葉は、戦中戦後の荒廃した世の中で子供時代をすごし、母を亡くした私の心に静かに染みこんでいった。
 一人の善き友に出逢い、誘われて、学校の宗教部に入り、ご一家で会員であった、日基の京都丸太町教会に出席するようになった。
 当時、土曜日に中高生の為のジュニアーチャーチがあり大変盛んであった。日曜日は聖日礼拝にも出席し、女性の副牧師の今井万里先生のお導きと、良き仲間達との交流の中で自然に導かれ、あまり迷うことなく1954年のイースターに洗礼を受けた。
 しかし、年を経るにつけて、実生活の中でみ言葉に従って暮らせない自分に情けなく、許せなくて、本当に私は神様を信じているのだろうかと不安が生れ、苦しむ日々であった。私にとっての十字架は、この弱い自分自身である。ヨハネによる福音書の「私があなたがたをえらんだ」とのみ言葉にすがる。しかしそれに続く「行って実を結びその実が残るように。」には、お応え出来ていない。
 結婚して東京に来た時、すぐ近くに都南教会を見つけて嬉しかった。日基とルーテルの違いもわからないまま、出席してみた。T牧師夫人とM姉が柔しく迎えて下さった。夫も姑もキリスト教ではなかったので、結婚が決まった時、「教会に出席する事」を条件に願い、許しを得ていたが、実際日曜毎に家を空けるのは、難しかった。

 しかし、近かったので、何とか教会生活を続けられた。迷いが多く心弱い私を救うための神様のご配慮であったと感謝している。

 以来、都南教会の交わりに支えられて今日がある。老いてご奉仕は出来なくなったが、祈る事だけは出来る。朝毎に、T先生をはじめ、お世話になった先生方のお顔を思いうかべ、お名前を挙げて、「神様のために、善きお働きを」とお祈りしている。この3月に神学校を卒業し、牧師となられたN先生のお名前も加わった。今では神様はこの弱い私のままで受け入れて下さるのだと、心安らかに天に迎えられる日を待っている。  (Y.M)

 

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 私の高校、大学はミッションスクールでした。週一回は礼拝堂での礼拝、キリスト教の科目もありました。授業でイエス様の山上の垂訓には衝撃を受けました。心の貧しい人、悲しむ人、迫害される人、等々は幸いである。この世で幸せと思われている人々は不幸だと全く逆だったからです。私の名のためにあなた方はすべての人に憎まれる。最後まで耐え忍ぶものは救われる。私より父や母を愛する者は私にふさわしくない。敵を愛せ。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい。また、パン五個と魚二匹で五千人が満足したとの奇跡は信じられないけど聖書には記述されています。
 学生時代はワンダーホーゲル部に入り仲間と山に登りキリスト教にはあまり関心を持っていませんでした。私はこの教会で1966年(昭和41年)10月にT先生から洗礼を受け結婚しました。夫と結婚してから一緒にこの教会に通うようになりました。夫の父は牧師でT先生とは神学校で親友だったと聞いていました。教会に通うようになりイエス様は神の子であり私たち罪人のために十字架にかけられて殺された事を知りました。しかし、三日後に死から復活し天に召されました。
 復活がなければキリスト教はこの世から消えていったでしょう。私の知っているあるアメリカの熱心なカトリック教徒は祈る時に知人の悲しみや悩みが癒されるよう名前を入れて祈っていると聞きました。私も祈る時はそうしています。十字架は死を現わしますが、イエス・キリストを信じる信仰があれば永遠の命が与えられると信じています。私にとって十字架は希望であり生かされていることへの感謝でもあります。反面、この世のことのみに心を奪われていてともすればイエス様が頭から消えてしまうことがありいつも懺悔しています。
 今は夫と一緒に教会で御言葉を学び讃美し、そして教会員の方々と交わりを持つことができて感謝しています。

 

   「教会の敷居が高く思うとき 
     されど神はわれを導く」
   「聖日に十字架見上げて祈るのは 
     脳裏に浮かぶ隣人のこと」      (S.N)

 

 

聖書朗読をさせていただいて

 

 昨年度、私は礼拝中の聖書の朗読を担当させていただきました。大切な聖日礼拝の役割を果たすことになって「毎日欠かさず、本番と同じ緊張感を持って1回だけ読む」という練習計画を立て、実行しました。当番は1〜2か月に1度です。毎日すれば同じところを30〜60回読む計算になります。何度も読んでいるうちに読み間違いも減って、講習会で言われた文の前後の意味も、筆者の気持ちも自然とわかるようになり、注意事項に気を配れる余裕もでてきました。

 聖書朗読を担当してよかったことは、何といっても毎日聖書と向き合えた経験でした。情けないことに今までの私は日常の生活に追われ、毎日聖書を読んだことがありませんでした。そんな私が、テーブルの上に聖書を置いて毎日読みます。とても新鮮で、自分がキリスト者なのだと実感でき、喜びを感じました。しかし旧約聖書などの、深い意味までは読み取れません。最初に担当したエゼキエル書の「そこは骨でいっぱいであった。」とはいったいどこなのだろう、「戦場の跡」それとも「疫病で滅んだ町」だろうかなどと考えたりしていました。礼拝当日、朗読の後の牧師先生の説教で「墓場ではありません。神を信じない人であふれる現世です」と伺い、納得し、旧約聖書への関心も一気に深まり、説教を聞くのがますます楽しみになりました。またみ言葉を何度も読んでいると、自身をみつめ、自分のありかたに反省点がたくさん出てきます。イエス様に救われたことを覚えて、よりよく生きなくてはいけないという向上心も生まれました。
 ほかの朗読者の方も「そうした」とおっしゃっていたのですが、風邪をひかないように気をつけたり、家族に聞いてもらって練習したりしながら、1年間務めさせていただきました。このような機会を与えてくださり、また温かく見守ってくださった、神様とT牧師先生、教会の皆様に心から感謝しています。

 

 

Eさんのこと

 

 敬愛するE姉が1月20日天に召されました。主の日(日曜日)でした。お元気なら教会に来て礼拝をされていたでしょう。最後にお会いしたのは、クリスマスの前週。クリスマスにいらっしゃらなかったので皆で気にしていましたところ、数日してEさんから電話があり、「足が痛くて行かれなかったのよ。心配してあるかと思ってなあ…」と、お声はしっかりしていらっしゃいました。でも、1月になってもいらっしゃることはなく、電話をかけてもお声を聴くことはありませんでした。
 Eさんは、北区に越されてからもバスを乗り継いでほとんど毎週教会にいらっしゃいました。礼拝に間に合うように早めに来て、ロビーの椅子に腰を下ろしてひと休み、皆さんとおしゃべりしておられた姿が目に浮かびます。礼拝を欠かさない姿勢にいつも励まされました。
 また、「聖書を読む会」をとても楽しみにしていて、こちらもほとんど休まず出席されていました。いつも隣の席でしたのでEさんの聖書をのぞくのですが、何と、聖句に赤線がいっぱい!聖研のプリントにも何色ものペンで線を引いていました。耳が遠くなられ、学ぶところを確認しながら先生の話を聞いておられたように思います。先生が紹介して下さる本は進んで読み、読まない私に感想を話してくださいました。もちろん他の雑談は、いつもユーモアにあふれ、時にブラックユーモアもあり、楽しい方でした。
 そしてEさんは堅実な方でもあり、しっかりした考えをお持ちでした。人にお世話になる事を好まれませんでした。でもご自身は、人のために身を惜しまず働かれました。このことは、皆さんよくご存じの事と思います。

 Eさんは箱崎教会でT先生から洗礼を授かり、M先生と青年会がご一緒だったと伺っています。長い信仰生活の中で、良い時も悪い時も神様につながっていて、いつも神様が共にいて下さったのだと感じています。

 愛おしいEさん、さようなら、またね。   (O.N)

2018年

神の家族に属する者

 

 夫と私にとって、今年でアジアに住む期間が22年となり、外国人、寄留者として、まことのホームはどこかと考える人生です。
 こういう人生の中で私たちは、深い関係を感じる気持ちと同時に、漂流する気持ちを持っています。日本やカンボジアや香港など私が今いる所で、普通にそこでの日々の生活にすべてを集中させた気持ちがあります。買い物したり、掃除したり、子供たちを育てたり、教会に参加したり、料理したりとかします。しかし、時折「私が外国人だ」と覚えて、足元がふらふらされて、息を乱されるのです。そういう気持ちになるとき、普通は予期しないのですが、油断しているところを襲われてしまいます。多くの愛する者から私が遠く離れているという気持ちです。
 そのとき、神の民が一つの体であることを覚えます。かなめ石は、キリストの上に建てられた神の民、神の家族に私たちは属する者であることを教えてくれるのです。今どんな所にいようとも、私たちは決してこの家族から切り離されないことを覚えます。
 下の写真は私が出席する都南教会の定礎です。東京に住んでいる間に、この教会に繋がり、家族、ホームを見出しました。どこにいようとも、台所の窓から見える景色は異なっていても、全世界の兄弟姉妹と共に一つであることを示す印、それがこの定礎だと思います。
 私たちは一人一人、それから皆と共に、聖霊の住まいが建てられています。素晴らしいことでしょう!
 日本のことわざはふさわしいと思います:同じ釜の飯を食う。 (S.A)

 

 

トリニティ・ルーテル教会(オレゴン州ポートランド)の
かなめ石
「このかなめ石はイエス・キリストご自身である」
                 (エフェソ2:20)

 

 

 

             都南教会のかなめ石「定礎」

 

 

 

 

クリスマスの思い出

 

 「クリスマスの思い出」というタイトルを牧師先生からいただき遠い昔の記憶の糸をたぐってみました。私が三、四才の頃と思いますが、はっきりと思い出す事があります。当時、私は中野に住んで居り、クリスマスの祝会に近くの教会にまいり、兄と二人で聖壇に立ち大勢の方々の前で兄が「メリークリスマス トゥー ユウ オール」次に私が「みなさま、クリスマスおめでとうございます」と言ったことです。この事を追憶し、これが私の人生最初のクリスマスを迎えた日の記憶の始まりです。小学生時代は、サンタクロースが本当にいると信じ、夜中に兄達とそっと起きてクリスマスツリーの下を見に行った事も想い出されます。成長と共に救い主、イエス・キリストの誕生の意義も理解出来る様になりました。戦後、クリスマスイヴの礼拝の後に キャンドルサービスの方々が、大勢 実家を訪れて下さり、賛美歌を庭で歌って下さいました光景も歌声もつい此の間の様に思われます。

 又、親類の青山牧師宅に、私供一家がクリスマスの祝宴に毎年招かれ、共に主の誕生を祝い、楽しい一夜を過ごした事も想い出の一頁となりました。今はその中の5人が天に召されました。しかし「ヨハネによる福音書11章15節」に書かれている「わたしはよみがえりであり命である、わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる」という言葉どおりクリスチャンであった亡き5人は、み言葉どおり、皆、天国で楽しく過ごしている事と私は信じます。やがて今年も又、クリスマスを迎えます。私達は、私達を罪から救い永逮の命を与えてくださいました主イエス・キリストの誕生を心から感謝し日々、信仰生活を過ごさねばと思います。私は自分自身の信仰について考えてみますと、女学生時代に受洗しました母に育てられ、母の姿を見て、自然体で日々を過ごし、神様の存在を信じて過ごして今日に至りました。

  今では毎朝罪を懺悔し、皆が健康で幸せに過ごせる様にとお祈りして、一日が始まります。私もふと振り返ると長い人生をあっという間に過ごしました。私は神様が私達に求められていられる「テサロニケ人ヘの第一の手紙5章16節〜18節」「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、すべての事に感謝しなさい」を常日頃から心にとめています。又、残り少ない余生を神様にゆだね御心にかなう日々を過ごしたいと思っています。神の栄光を見いだす事から信仰は始まると信じ、日々の信仰生活をしなければと思います。私の愛唱歌「四っ葉のクローバー」は、「コリント人ヘの手紙12章13節」からとられたものと思います。「信仰、希望、愛」がテーマです。やがて又、クリスマスを今年も迎えます。私達を罪から救い出し、永逮の命を与えて下さった主イエス・キリストの誕生を心から感謝します。 (U.K)

 

 

マイナスがプラスに

 

 夫が召されて二ヶ月余が過ぎました。今も悲しみや寂しさは消えませんが穏やかな毎日を過ごしております。
 進歩した現代医学でも死の宣告を受けるような「がん」の告知を16年前夫は受けました。大量下血により検査を受けた時のことを今も鮮明に覚えています。検査をして下さった医師が私を検査室に入れてくださり、内視鏡で映し出される夫の腸内の映像を見ながら、「これががんです」「私たち医者は命を救うために努力しているので、このまま死なせるようなことはしないよ!手術して生きるんだよ!」と力強く言われ、がんと向き合う生活が始まりました。人工肛門を付け、その後すぐ肝臓転移で再度手術、続いての抗がん剤治療もそれら全て医師を信頼して続けられたと思っています。
 人工肛門に加え自己導尿という生活になった後本人はかなり辛かったと思いますが、不平不満を言うこともなく受け入れていました。ただ外出するのは病院と近くの散歩くらいになってしまいました。
 直腸がんの手術から10年過ぎた頃「5年生存確率0%と医師仲間では言っていたが10年以上生きてくれてありがとう」と執刀医に言われ二人で涙して喜び、神さまに感謝しました。
 4年前新たに胃がんを発症、肝臓転移と続き、手術、抗がん剤治療を続け、かなり辛い治療となりましたが、その度に力強い医師の言葉を思い出し、神さまはいつも耐える力も共に備えて下さることを思い、続けることが出来ました。
 年月が経ちがんも末期へ進み、抗がん剤が効かなくなり、明日のことは医師にも分からない状態なので覚悟をと言われ、娘と二人不思議なほど落ち着いて、穏やかで安らかに神さまのみもとに召して下さいと祈り続けることが出来ました。
 医師から自分の病状を聞かされなくなった夫は不安になる時もありました。そんな時、毎週のように病室でお祈りして下さった立山先生の祈りに心の安らぎを得、平安が与えられ、神さまが約束してくださっている天国への道をさらに確信することが出来ました。猛暑の夏、先生には心からお礼を申し上げます。
 三か月の入院中、神さまは見えない力と、とても不思議なたくさんの業で導いて下さいました。感謝しかない不思議なことばかりです。
子供祝福式の励ましの言葉を聞き、父が「神さまは数式のように大かっこ、小かっこを解くとマイナスをプラスに変えて下さる」と話していたのを思い出しました。本当にそうだと強く思います。

 夫が痛みも苦しみもなく、安らかに神さまのみもとに召されたことを心から感謝しています。

 私にも神さまが道を備えて下さっていることを信じ、信仰生活を感謝と祈りをもって続けたいと思います。 (M.Y)

 

 

 

羊の群れへ

 

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
                    (ヨハネによる福音書10章10節)

 

 この句は私の母校の「学院聖句」である。私は昭和20年代、敗戦後の諸事混乱していた時期に九州女学院中学校に入学した。日本福音ルーテル教会が1926年(大正15年)に熊本に創設した学校で、現在、ルーテル学院中学校・高等学校と改名、男女共学となっている。高校を卒業するまで校庭の一隅にあった寮で過ごした。朝の礼拝に始まり終礼拝、寮での夕礼拝、加えて聖日礼拝といったキリスト教による教育環境にたっぷり浸っての6年間だった。
 高校卒業数か月前の頃、私は、卒業するまでには洗礼を受けたいと漠然と思っていた。次第にその気持ちになって行ったのは環境の所産といえるかもしれない。
当時のことを振り返れば、高3年の後半ごろ、私はある上級生と同室になった。彼女の物腰や言葉、お祈りの端々には聖い霊的な雰囲気があって、例えるならば、「キリストによって神に献げられる良い香り」(コリント二の2章15節)を身にまとっているような人だった。一緒に過ごす中で、私は彼女から、生きる目標は何かを学び、多くの感化を受けた。彼女としても、私を決心させるまでは、という決意を持たれたようだった。トルストイの短編「光あるうち光の中を歩め」を読んで議論した。また、ホルマン・ハントの「世の光」の絵のある本を示されて、「明かりを灯して戸の外に立っておられる主イエス」に対して中から戸を開けられずにいた私を諭し、行く道を教えられた。私はようやくキリストの羊になる決意を彼女に伝えた。神様は、固い信仰に立つこの先輩を用いて、私をキリストの羊の群へお導きくださった。

私の信仰は今もなお、山あり谷ありの途上にある。このままでは主の救いに与ることができるのだろうかと思う時もあるが、パウロがフィリピの信徒への手紙3章12節で「わたしは、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と語っている言葉に励まされる。都南教会に転籍を許されて48年になる。永遠の命に与ることができますように、と祈りつつ、懺悔と感謝の中で八十路を辿っている。 (H.S)

 

 

オルガン奏楽の奉仕者として

 

 私は、都南ルーテル幼稚会で初めてキリスト教と出会いました。その後、教会学校に通うようになり、ミッションスクールに進学し、洗礼を受けました。私の人生の土台がここ都南教会にあると思います。その都南教会でオルガン奏楽をさせていただいてどれくらいか、今回会報の原稿を書くにあたって数えてみました。中学でパイルオルガンを習うようになったのがきっかけで、CSの奏楽を、高校生になって大人の礼拝の奏楽を、気が付いたらもう20年以上も奏楽に携わっているなんて驚きました。

 趣味はと聞かれれば、音楽を聴くこと・弾くこと、特にクラシック音楽と答えるほど、小さい時から音楽は好きです。音楽は私に力を与えてくれたり、癒してくれます。専門の知識があるわけではありませんが、作曲者のことや曲のこと、讃美歌の歌詞の意味を調べてみたりすることは楽しくて好きです。
 大学時代は礼拝奉仕の団体に属し、本来の理学部の勉強をしながら、教会音楽を学び、先生から奏楽のレッスンを受けました。大学礼拝堂のオルガニストとして礼拝に参加していたので、都南教会に通えないこともありましたが、卒業後に就職して、結婚して、子供が産まれて子育てをしながらも、自分が好きなことを生かせる場所があることがうれしいです。
 オルガン当番の時は、私にとって1人でゆっくり御言葉を聴ける時間で心が落ち着く時です。何事もじっくりしっかり考えて動く毎日が、子供が産まれてそうもいかなくなり、手探りしながら追われるように過ごす日々。また子供を怒ってしまった、家族に八つ当たりしてしまったと落ち込み、そんな自分にイライラしてしまい何も見えなくなっていく。そのような気持ちの時でも、礼拝のひと時で心が洗われて、また頑張ろうという気にしてくれます。
 奏楽の日が決まるとまず聖句を調べて、曲を選んで、讃美歌の言葉を読み、音色を考えます。家族の協力もあって練習する時間ができていて、教会員の方々のお支えがあって奏楽させていただいています。礼拝が心を落ち着けて御言葉が聴ける時であるように、皆で心を合わせて讃美できる場であるようにと心がけて、また次回の礼拝のために練習をしていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。 (M.T)

 

 

都南ルーテル聖歌隊のあゆみ50年

 

 私が中学生の頃、社会科勉強の為、福岡大牟田ルーテル教会の門を潜りました。戦後間もないまだ社会情勢が混乱の中にあった時、父を亡くし、自分がどの様な道を歩めばよいのか、真暗闇の中にありました。
 小さいときから歌の大好きだった私は、辺り構わず大声で歌ったものでした。せっせと教会に通う様になったのも、賛美歌を大声で歌う事が出来たからかも知れません。東京に嫁いだ姉が手引きしてくれた事もあり、上京して自分の出来ることを探したいと思う様になり、母を説得し、福岡の県立高校から東京のミッションスクールに転校させていただきました。
  その時、たまたま募集していたプロの聖歌隊東京チャペルセンターコワイヤ(外国人のための教会)に入団を許され、中田羽後先生より、宗教音楽を学ぶ機会が与えられました。と同時に音楽大学受験の道も開け、前途洋々のように思えました。神様は私に2本のレールを敷いて下さいました。父親のいない私が音楽の道へと進む事が出来たのです。神様のお導き、まさにこれは奇跡と言うべきです。私は2本のレールをあるきだしました。しかしそれは厳しい道でした。アルバイト、アルバイトの連続、ルーテルアワーのお仕事もその頃与えられました。

 あまりの忙しさから大病を患い、一時音楽を離れなくてはならないかと思いつめたこともありました。しかし神様は再度レールの上に載せて下さいました。

 大学を卒業して数年後、結婚して2人の子供に恵まれました。その頃ルーテル教会が近くにある事を知り、早速転籍させて頂いたのです。
  丁度その時チャペルセンターが解散となり、今まで歌っていた100を超える英語の宗教曲を歌う場所がなくなり、これらすばらしい音楽を発表する場が失われました。時を同じくして、その当時牧会をなさっていらした田坂惇巳先生から聖歌隊を作って欲しいと依頼され、二つ返事でお引き受けした次第です。
 2人目の娘が誕生した年です。私たちは魚が水を得た様に、今迄チャペルセンターで歌っていた数々の曲を日本語で歌いたいとメンバーをつのり、練習に励んだのです。その英語から日本語への翻訳を長年一緒に歌っていた夫がかって出てくれました。 (M.H)

 

 

私と教会

 

 初めて教会に行ったのは敗戦で国土が荒廃した中で復興の始まりの頃、昭和21年末から22年初めの冬だった。教会と家とが近いことは神様に出会う動機の一つだった。
 18歳の頃の私は心身共に飢えた状態にあったがそれは当時の日本国民に共通のことだった。それまでの価値観が殆ど失われ、胃袋も空腹感を覚えていた。今では想像しにくいが「むつまじうして一かたまりの乾けるパンあるは、争いありてほふれるけものの満ちたる家にまさる」(文語訳聖書箴言17:1)の聖句が心にびびいた。更に使徒パウロが「身に一つのとげが与えられました。それはサタンから送られた使いです。わたしは三度主に願いました。すると主はわたしの恵みはあなたに十分である。」(途中省略)とコリント信徒への手紙二12:7〜10に記された聖句は心の奥底にしみわたる感があった。
 そして昭和23年の復活祭の日に平井清先生により洗礼を受けた。その後は青年会や当時の日曜学校の仕事や全ルーテル教会青年会(リーサーリーグ)などの活動や、都南教会が宗教法人の許可を受けるための役員として名前を使わせて頂く等いろんなことがあった。昭和47年10月刊行の日本福音ルーテル都南教会30周年記念誌にはなつかしい方や大先輩の方や現在教会の奉仕活動をされている方の貴重な文章が記されているが、そのお名前と文章の内容はここでは省略させていただく。
 私はある時期に不遜にも教会から遠のき神様から逃げようとしたが、そんなときにも頭のなかにあったのは平井先生が説教のなかで引用されたロシアの文豪ドストエフスキの『カラマーゾフの兄弟』のなかでロシア正教会の長老が悩める青年に話す「神様の愛でさえ追いつかぬような罪があるだろうか」という言葉だった。町野洋先生は週報を送り続けて下さり、私は再び教会の扉を叩いた。礼拝に出る資格がない不信仰な者を招いて下さる十字架の主イエスをひれ伏して拝むほかはない。 (W.S)

 

 

私の原点

 

 「ママがいいのー!」と叫ぶ晶子。「ママがいいわねー。はい。」と言いながらも晶子を担ぐM.S先生。30年前の都南ルーテル幼稚会の朝の光景である。それから30年後、晶子は2児の母となり、子どもたちを連れて教会に通っているなんて誰が想像していたであろうか。
 思えば30年前に都南ルーテル幼稚会に通ったことが私の原点だ。教会学校に繋がりミッションスクールに通ったことで洗礼を受けた。幼い頃からキリスト教に触れ合い、教会には話を聞いてくれるおじちゃんおばちゃんがいるという環境の中にいて、自然と人生の基盤というか方向性が見えていた。この基盤は、看護師という人の生死と向き合う仕事をする中でとても重要となっている。
 今は大人の礼拝に出席出来ず、子どもの礼拝に出席をしている。しかし、イタズラする子どもの監視をするため落ち着いて説教が聞けない、、毎日怒ってばかりで心がすさむな、、と思っていたところ、ママ達のための分級クラスができた。聖書の話を聞き、ママ達と情報の交換をする事で気持ちがスッキリとし、新しい1週間が迎えられる嬉しさを味わった。

 これからいろんなことがあると思うが、教会には繋がっていたいと思う。そして子ども達にはこのまま教会に繋がってほしいと祈るばかりである。

 最後に、今まで通りまなちゃんとあやとくんの相手をお願いします!あきは教会に来たら休みます!!いつもありがとうね!! (O.A)

 

 

 

    

聖書朗読者の声

 

 

 

  聖書朗読感想文
 礼拝で聖書を朗読するよう、牧師先生からお話があったとき、私にそのようなことができるかと身の縮む思いがいたしました。
 事前に講師の先生をお迎えして講習会が開かれました。そこで学んだことで特に心に残ったことは、朗読箇所だけでなく、その前後の内容もよく理解して読むということでした。そうすることで、内容が明確に聞き手に伝わるとのことでした。
 当日、震えるような緊張の中で心に平安を与えてくれたのは、礼拝の前に行われる牧師室での祈りの時間でした。礼拝はすでにこの時から始まっているのでした。また、マイクの使い方や音量を調節してくださる方、朗読をCDにしてくださる方など、多くの方の支えのもとに礼拝が守られていることがよく分かりました。
 誠に恥ずかしいことですが、私は長年礼拝に出席しながら、今まで参会者の存在の大切さを考えていませんでした。この度、聖壇に上がって会堂の皆さまの姿を見たとき、その存在の大切さを痛感しました。真剣に聴いてくださる姿は、大きな支えであり励ましになりました。参会者はどなたも礼拝の重要な要素であると思いました。
 私の最後の朗読箇所は、エフェソの信徒への手紙(3章14節から21節)でした。パウロの切々とした祈りは、私への励ましのようにも思われました。この箇所の見出しー「キリストの愛を知る」は、聖書朗読を通して私に与えられた神さまからのメッセージであるように思いました。 (K.A)

 

 聖書朗読を終えて
 昨年3月立山先生から礼拝での聖書朗読を打診されたとき、都南教会の会員になって日も浅い自分が読むなんておこがましいと思って一瞬迷いましたが、何か役割を担わせることで、教会生活をより密度の濃いものにという心遣いなのだと思い直し、引き受けることにしました。
 三鷹教会のY.T姉の講習会があって、ただ読めばいいというわけではなく、読み方を間違えないこと、句読点をきちんと守ること、適切な抑揚とリズム・早さが必要なこと、何よりも聖句の意味をしっかり把握し聴く人の心に届くように読むことが大切等々のお話があり、うわっ!えらいことになったぞと思いました。
 1年間、毎月2回4人でローテーションを組んでやることとなり、第1回目の4月2日、壇に上がるまではかなり緊張しましたが、「本日の第一の朗読は…」と読み始めると意外にすらすらと進んであっという間に終わってしまいました。11月に体調を崩して入院するなど他のメンバーにご迷惑をかけてしまいましたが、何とか最後まで務めを果たすことができました。退院後、立っているのがやっとというときにも壇の前に立つとなぜか元気がでるのが不思議でした。朗読する箇所はせいぜい数行から数十行ですが、その前後を事前に読まないと意味がわかりません。自然に聖書を読む時間が長くなるわけで、これも牧師の狙いの一つだったのだと思い当りました。 閑話休題。昨年10月に読んだ聖句「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(ローマの信徒への手紙12章19節)が印象的でした。若い頃「復讐するは我にあり」という映画を観たときのことを思い出したからですが、この聖句は「復讐は神に任せる」と言う意味なのに、「自分が復讐するのだ」と真逆の解釈が一般化していることを原作者の佐木隆三はどう考えていたのだろうかと改めて思ったのです。 (N.T)

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